パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エレミヤ書38章

2017年05月15日 05時23分04秒 | エレミヤ書
 エレミヤは、再び投獄された。彼は率直に、バビロニヤ軍への投降を勧める。それが生き延びる道である、と(2節)。しかしそれは、エルサレムの首長たちには、民全体の士気をくじくことば、災いを求めることばに聞こえた。首長たちがゼデキヤ王に訴え、ゼデキヤ王は、首長たちの手に、エレミヤの処分を任せている。首長たちとゼデキヤ王の力関係が伺えるところだろう。ともあれ、首長たちは、王子マルキヤの穴に投げ入れた。それは、書記ヨナタンの家にある丸天井の地下牢とは別物のようである。本来は、雨期に降る雨をためる水溜の穴であったようだが、この時は渇水期で、底に泥がたまっている状態であった。エレミヤはその泥に沈んだという。
 王宮にいたエチオピア人の宦官エベデ・メレクがこの事実を聞き、エレミヤを救出した。彼は、エレミヤを綱で引き上げるのであるが、着古した着物やぼろきれを使って、エレミヤの弱った体が痛まぬように配慮している。エレミヤは泥の中に沈みながら、凍え、眠れぬ夜を過ごし、飢え渇いたのであろう。彼は衰弱していた。何とも、厳しい取扱いである。主に従うことが、誉れを受けるのではなく、このような身に応える虐待を受ける結果になるとは、理解に苦しむことだ。しかし、これも主に従うことの一面の真理である。イエスの服従も、十字架の道を辿ることであった。パウロも、「私たちにはキリストの苦難があふれている」(2コリント1:5)と語る。パウロにとってキリストに従う道は、労し、苦しみ、眠れぬ夜を過ごし、飢え、渇き、欠乏の時を過ごすことであった(2コリント11:27)。しかしそこに、慰めも豊かであるとパウロは語っている。苦難に与る幸いがある。ここがわからないと、やはり、キリストやパウロと分かち合うものはない。
ゼデキヤは、再びエレミヤに接触し、エレミヤに神の言葉を求めた。人が神の言葉を求めるのは、自分に都合のよい言葉を聞きたいからであって、真実を語って欲しいためではない。真実を語って欲しいとは思うが、自分の意に反した要求や結末など聞きたくはないものだろう。だが、この痛みの作業を通らずして、真の祝福を手にすることはできない。
ただ、ゼデキヤにしても、アッシリヤの権力に反逆した自分に、たとい降伏したとしても、そこに何のよい結末も期待できないことは確かであったことだろう。また、首長とゼデキヤの関係を見るに、彼が、この状況において孤立していたことも確かである。彼は王ではあったが、自分の思うようには物事を進められずにいた。いわゆる降伏したくても、降伏を告げることのできない圧力の中にあった。つまり、彼にとっても、主の言葉に従うことは、十字架の道を通る以外の何物でもなかった。しかし、私たちの多くもまた、そうなのだろう。自身の信仰が、幸福主義、ご利益主義であり、決して神と共に生きるものではないことに、人生のどこかで気づいていく必要があるのだ。
主に従ったエレミヤは、痛み、苦しみを通りながらもいのちを守られていく一方、ゼデキヤはそうではなかった。神の言葉に従うことは、信仰と勇気なくしてできない。人の目や痛みを気にしているようでは無理である。損得勘定で考えていたら決してできないことである。ただ従う、本当の強さを持って歩ませていただこう。
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