パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書11章

2017年06月14日 05時18分47秒 | エゼキエル書
 11章を最後の区切りとする幻には、二つのことが語られている。一つは、エルサレムにいる人々の未来に関わる預言(1-12節)。そしてもう一つは、すでに彼と共に捕囚となっている人々に対する預言である(13-25節)。
 最初に、主の霊は、エゼキエルを主の宮の東に面した東の門に連れて行った。そこには25人の者がいたというが、これは、政治的な指導者たちを指している。彼らは言う。「『家を建てるにはまだ間がある。この町はなべであり、私たちはその肉だ』と言っている。」(3節)なべと肉の「関係」が重要である。つまり、25人の者たちは、エルサレムをなべとすれば,自分たちが肉であり、それに意味や価値を与える指導者である、と自認している。そして、なべが肉を火から守るように、彼らは城壁によって戦火から守られる、安全だ、と考えていた。神は、そんな悪者たちの心をご存じで、同じイメージに別の意味づけを与えている。つまり、肉は確かになべの中にあるかもしれないが、それはすでに調理されたのだ(7節)、という。神は、彼らの考え方を真っ向から否定し、エルサレムの城壁はなべ代わりにはならない、あなたがたは滅びるのだ、と断言するのである。これはBC586年に成就した(2列王25:18-21)
そこで少しユダヤの歴史を整理しておいた方がよいだろう。アッシリヤやバビロンによるイスラエル捕囚は、次のように、徐々に拡大されていった。①BC734年:ティグラテ・ピレセルによるガリラヤおよび全東部・北部イスラエルの捕囚、②BC721年:サルゴンによるサマリヤおよびイスラエルの残部の捕囚、③BC701年:セナケリブによるユダの捕囚、④BC606 年:ダニエルを含む少数の者の捕囚、⑤BC597年:エゼキエルを含むさらに多くの者の捕囚、⑥BC586年:ネブカデネザルによるエルサレムの攻撃と炎上。確かに、エルサレムの町はなべであっても、防火鍋ではなく調理鍋となってしまったのである。
 ベナヤの子ベラテヤの死は、7-12節の主のさばきの言葉の確かさを明らかにした。神のことばは脅しでもはったりでもなく、まことである。エゼキエルは、神の裁きを目の当たりにし、戦慄を感じて叫ぶ「あなたはイスラエルの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか」(13節)。神は、イスラエルを見捨てず、「わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える」と応答した。
BC597 年、正統派の人々は、エゼキエルたち捕囚によって連れ去られた者たちを、汚れた外国の地に見捨てられた者たちと見なし、エルサレムに残った人々は正しい者たちで、神のすべての好意を受ける者たちと見なした(15節)。しかしその捕囚の民こそが神の民である、と明言される。神が彼らの「小さな聖所」となり、神と共に聖なる者として守られており(16節)、さらに約束の地を再び受け継ぐであろうと約束される(17節)。その上彼らには、神の素晴らしい恵みの業として一つの心、新しい霊が与えられる、という(19節)。つまり、神に守られていると思う者が神に見捨てられ、神に見捨てられたと思う者が神に守られる。また、神に見捨てられた汚れを感じている者は、その汚れをもきよめられるのだ、という。大切な原則である。神はいつも砕かれた者の神である。神は、悪い者たちがいるエルサレムの町から離れ去った(23節)。しかし、捕囚の悲運に翻弄され悲しむ者たちに目を留められる。もし、私たちに落胆することがあったなら、あるいは、負け犬であると思うようなことがあったなら、そこにはいつも望みがあると考えたい。神は人の痛みを感じられる。悔い改める者を無視されない。この神にこそ希望を抱くことが大切である。主の栄光は、町の東の山から去っていった。この山は、オリーブ山と解釈される。つまりキリストの昇天をユダヤ人への裁きの行為として重ねて理解できるところである。
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