パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇109篇

2016年10月31日 05時33分49秒 | 詩篇
「のろいの詩篇」という区分がある。つまり悪人を呪い、報復を祈る特徴を持つ詩篇で、35篇、69篇もそのうちに含まれると考えてよい。これらは、悪人に対する複雑な感情を吐露し、祈りとするもので、それによって霊的に解放されることを目的とするものである。
「彼」または「彼ら」という人称代名詞に注目すると、1-5節、6-20節、21-31節と構造的に三つの部分からなることがわかる。初めに三人称複数形の「彼ら」で語られる部分があり、続いて、三人称単数形の「彼」で語られる部分があり、最後に「彼ら」に戻っている。色々な考え方があるようだが、中ほどの6-20節で、「彼」と単数形になるのは、1-5節で語られた悪人たちの代表格を念頭に置いたためなのだろう。
これを逆に悪人のことばの例を引用した、とする解釈もあるのだが、そうなると使徒の働きでこのことばを引用したペテロの意図が理解し難い。ペテロは、イスカリオテユダに代わる使徒を選出する際に、この詩篇を引用している(使徒1:20)。これを悪人のことばとすれば、ペテロは自分を悪人と同一視し、ユダを単純に呪ったことになる。しかしそうではなく、この詩篇を、69篇同様のメシヤ詩篇と考え、十字架上の人間イエスの複雑な思いを言い表し、どんな苦しみを乗り越えたのかを考えさせるもの、と取れば、ペテロは、この詩篇を思い起こしながら、イエスの深い痛みが神に是認さたこと、あるいは神がそのように人類を断罪された、と受け止めながら使徒の補欠選挙に臨んだことになる。
私たちはイエスが、私たちの罪の赦しのために死んでくださった、それは神の恵みであった、とよく語るのであるが、その深さをあまり考えずにいる。イエスも、人間であれば、本来は、「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように」(8、9節)と毒づきたい弱さもあっただろう。しかし、福音書に、そのようなイエスの弱さも罪も一切記録されてはいない。ただヘブルの著者が「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(4:15)と語るのみである。十字架の愛の輝きは、このような毒を吐く、呪いの思いを克服するばかりか、遥かにしのぐものであったことを私たちは悟らなくてはならないのだろう。神の愛は深い。
2節、「邪悪な口」「欺きの口」、詩人は嘘偽りで封じ込められている。「憎しみのことば」ということばの暴力にさらされている。4節「なじる」は、サーターン、悪魔を意味する。「私にサタンとなる」、つまり、法廷で悪魔的な告発者となっていることを意味する。しかもそれらは愛への報いである。つまり詩人は恩を仇で返されるような事態にある。こんな状況にあっては、ただひたすら神に祈るだけである。そうしたことばを封じることもできないし、巻き返しをはかることもできない、ことがある。
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