パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書35章

2017年07月08日 06時11分52秒 | エゼキエル書
セイルの山は、エドムにある山のことである。死海からアカバ湾にかけてのアラバと砂漠の間にある山岳地帯で、元々ホリ人という先住民が住んでいたが、エサウとその子孫、つまりエドム人の居住地となった場所である。この土地は、映画「最後の聖戦」の舞台ともなり、人々によく知られているが、ナバティア王国の巨大な世界遺跡ペトラがある。赤茶けた岩だらけの山肌に、古代の王国の墓が彫り込まれているが、その色は、まさにエサウの肌の色を連想させる(創世記25:25)。実際エドムは、ヘブル語で「赤い」を意味する。ともあれこの預言は、エドム人について語られている。
しかしながら、33章からは、イスラエル回復の預言になるはずが、突如挿入される形で、エドムに対する裁きの預言が語られるのはなぜだろうか。単なる、編集上のミスなのだろうか。それとも文脈的な意図があるのだろうか。もし、文脈的な意図があるとすれば、先の34章で、エゼキエルは、イスラエルが回復されるために「悪い獣」を取り除くと語っている。それは、イスラエルの貧しい者を搾取する富める者を取り除くことであるが、同時に、彼らの土地を略奪したエドムをも取り除くことに通じる。
というのも、エドムは、エルサレムの滅亡を喜んだが、それは、イスラエルの住民が捕虜となって連れ去られることで、その地を自分たちのものにする絶好の機会になったと考えたからである。しかし、その地は神のものであり、エドムのものではない。神の約束の地は、神の民にのみ帰属するのである。神はエドムの蛮行を裁かれると同時に、イスラエルの回復を実現するために、エドムに奪われた土地を回復してくださる。
当時のイスラエルの民は、バビロンによって土地から引き抜かれ、さらにエドムによって土地を奪われ、何もかも失ってしまった、と思ったことであろう。しかし、それは、終わりではなかった。神は約束の民を特別に扱われるのである。だから主に従う者は、どんなことがあっても、落胆し過ぎてはいけない。神は、悪を裁かれるが、私たちを叩き潰して物事を終わらせるようなお方ではない。必ず、私たちが回復する道を残しておいてくださっている。たとえ、私たちの罪の故に、取り返しのつかない事態が生じたとしても、私たちの愚行に漬け込み、私たちから何もかも奪う者が現れたとしても、神は、私たちの祈りに応じて、私たちのものを取り戻してくださるお方である。
私たちは神の裁きにあった、神に呪われたのだ、と思うようなことがあると、何もかも希望を亡くしてしまうところがある。神の裁きによって失われたものは大きいのだからそう思わざるを得ないところがある。実際、バビロンに連れ去られたイスラエルの民の身になって考えてみれば、自分たちの土地が誰かに盗み取られてもどうすることもできない状況である。そういう状況で、元の土地を取り戻す事が出来るなど、一体誰が考えたであろうか。神に反逆した罪は大きい。神に逆らった代償は大きい、それ以上のどんな考えが起こるだろうか。しかし、神自ら、私たちに語りかける。すべてのものを償い、返そうと。ヨエルはこう預言している。「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(ヨエル2:25)まさに、神は、愛深きお方である。神は私たちを裁き、その裁きの故に、人が弱り果てて、失望させられたままにしておかれることはない。神は悔い改める者の人生を回復させられるお方である。この神に期待して歩ませていただこう。
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