パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇93篇

2016年10月15日 01時06分30秒 | 詩篇
この詩篇は、後に続く95-100篇と共に、頌栄の詩篇と呼ばれる。ギリシャ語の七十人訳聖書では、「地に人が住んだ安息日前日のためのダビデの賛歌」と表題がつけられているが、ダビデの作とは考えられていない。しかし、ユダヤ教では、「安息日のための」と表題された92篇に並んで「安息日前日のための」詩篇として読まれた。七十人訳が「地に人が住んだ」と解釈したのは、1節の「世界は堅く建てられ」を根拠にするものなのだろう。これを天地創造と理解し、安息日の前日、つまり創造の第六日目に人間が創造されて、地に人が住むようになり、創造が完成し、神の支配が開始されたことを言う。
しかしながらこうした七十人訳的な解釈は、今日指示されていない。むしろ、この詩の実際の背景として、バビロン捕囚からの帰還があったとされている。つまり、イスラエルがバビロンに捕囚された時代は、神のダビデに対する契約が破棄されたかのように思われた時代であった。しかし、神は約束どおりに、イスラエルを祖国に連れ戻し、エルサレムを再建させ、もう一度神殿での礼拝を復活させてくださった。それはイスラエルの神がまことに天地万物を支配する神であることを証明するものであり、主が王の王であると認められる出来事である。その主の支配の完成を願う詩篇である、というわけである。
実際、詩人は言う「主よ。川は、声をあげました。川は、叫び声をあげました。川は、とどろく声をあげています。大水のとどろきにまさり、海の力強い波にもまさって、いと高き所にいます主は、力強くあられます。」(3,4節)。これは、アッシリヤ、バビロンなど大河を持つ国々に捕らえられていき、完全に滅ぼされそうになった、イスラエル捕囚について物語るものだとされる。しかしイザヤが語るように、大水にたとえられるバビロンによって、イスラエルが破壊し尽くされそうになったとしても、私たちの神の力はそれにまさるものであるという(イザヤ40:9-10、43:15など)。私たちの神は、私たちを大水の力から守ってくださる。主は力強い、というわけである。
 イスラエルの歴史的教訓から、神の栄光をたたえ、神に頌栄をささげるこの詩篇は、私たちの今の苦難に対するチャレンジとなる。つまりもし神の約束を取り去られた者のように感じているならば、祈りの答えが長引かせられ、状況はますます悪くなるどころか、完全に希望を失う状況にあるのならば、「川は、とどろく声をあげ」私たちの無力さを思い知らされ、その川の底なしの深さに引きずり込まれるかのような状況にあるならば、神を見上げて「大水のとどろきにまさに、海の力強い波にも勝って、いと高き所にいます主は、力強くあられます」と叫んでみよう。
「主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ」(2:20)とハバククも語っているが、主は、私たちの思う所を遙かに超えて、力強いお方である。天地が揺り動かされようと、神は不動の存在である。もちろん、ハバククがいう聖なる宮は地上の宮のことではない。この宇宙とは区別された、ご自身の世界であろう。そして私たちも地にありながら天上におられる主に連なる民である。この世がいかに荒ぶろうとも、私たちは不動の神に守られるのであるし、私たちの灯心がいかにくすぶりかけても、神の力によって再び燃やされることになる。神は確かなる目的を持って、私たちをこの地のこの時代に住まわせてくださっている。神のしもべとして、今日も神のみこころに仕えさせていただく歩みをさせていただこう。

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