【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エゼキエル書32章

2010年12月31日 06時48分34秒 | エゼキエル書
 第12年の12の月の1日、つまりBC586年、ちょうどエルサレムが陥落した時に語られた預言である。バビロンによって滅ぼされたエジプトに対する哀歌となっている。エジプトは、川の中で暴れ回るわにのようである、という。その権力を誇り、この世界を我がものにしている、そんなエジプトが、神の網に捕らえられ、捕獲され、弱らされて死に絶えることが預言されている。
 「わたしが、諸国の民、あなたの知らない国々の中であなたの破滅をもたらすとき、わたしは多くの国々の民の心を痛ませる」(9節)。神の裁きの厳しさに、多くの人々が驚愕する、という。確かに、当時の繁栄の中で、誰がこれだけの歴史を誇り、これだけの権力を持ったエジプトが滅びると考えたであろうか。
 そういう意味では、今の日本も例外ではないのかもしれない。天地創造のまことの神を認めようとしない日本。自分たちの造り主を認めて、その神の前に謙ろうとしない日本が、なぜ神の裁きを受けることなく、存続し続けているのか。それは一重に悔い改めのためであり、神の忍耐のためであると言うことができるのであろうが、もはや、日本の政治はがたがたであるし、日本が戦争は遠い他国のことと高をくくっている状況でもない所がある。
 17節、エジプトへの哀歌が語られた、15日後。エジプトのよみにくだるエジプトについての預言が語られる。エジプトは、他の滅亡した国々とそこで一緒になるという。
 17節、新改訳は「第一の月」と訳すが、新共同訳では「その月」つまり同じ12月であるという意味で訳している。ヘブル語原文は、何月であるという記述はなく、「月の15日」となっているから、新共同訳は、ヘブル語原文通りに訳したのであり、新改訳は、ヘブル語のギリシャ語訳である70人訳の解釈を取ったためである。特にこの箇所を「第一の月」と訳さなくてはならない理由も考えつかない。新改訳は、単に口語訳に引っ張られただけなのかもしれない。
 ともあれ、エジプトは、「アッシリヤとその全集団」(22節)と同じ運命を辿るのであり、「エラム」(24節)「メシュクとトバル」(26節)、「エドム」(29節)、「シドン」(30節)と滅びた弱小国とも一緒くたにされるという。かつては歯牙にもかけなかった弱小国と同じ運命を辿るとは、実に不名誉な結果である(30節)。しかし、それはよみにくだったのが自分たちだけではない、という皮肉な慰めでもある、という(31節)。しかしこのように、イスラエルのみならず、近隣諸国の裁きが語られるということは、ましてバビロンもまた高慢になれば同じ運命を辿るということでもある。だから、それは、今の私たちの国もそうである、ということでもあるだろう。
 今の日本が滅びても、客観的に見れば、一つの文明が滅びたということでしかない。私たちがマヤ文明が滅びた、と他国の歴史的な盛衰を眺めているようなものだろう。そういう意味で、私たちも神の目には、皆地の塵に等しい存在であり、他のアジアの国々と同じように見られていることを覚えなくてはならない。日本の技術は最先端である、日本はアジアで最初に近代化を成し遂げた国であるというような誇りに居座っているようでは、だめなのだろう。神の前に、日本もアジアの国の一つでしかない。日本もまた、その傲慢さの故に、いつでも、神の裁きに倒れ伏すような国でしかない。だから私たち一人一人が神の前に謙って、人間がいかに生きるべきものであるかを聖書から教えられなくてはならないのだと思う。宗教を信じるのではない。人間がいかにあるべきかを、神に教えていただくのである。一心不乱に祈願するのではない。神に正していただくのである。新しい年に向け、しばし、自身の人生を振り返る時を持ちたいものである。

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