パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エゼキエル書34章

2017年07月08日 06時07分54秒 | エゼキエル書
 34章において非難されているのは、イスラエルの指導者と富める民である。イスラエルがなぜ、バビロンに滅ぼされる結果になったのか、それは、牧者たる指導者がいなかったためである。いわゆる政治の問題である、という。
事実イスラエルの指導者たちは国民を食い物にしていた。国民を保護するどころか、国民から搾取し、自分自身を肥やしていた(2,3節)。また、彼らは、愛情ではなく、権力によって国民を支配した(4節)。心なき、配慮無き政治である。そして彼らは国民を一つにするのではなく、散らされることをよしとした。イスラエル捕囚の責任はイスラエルの指導者たちにあった、というわけだ(5節)。
国民の長でありながら、国民のことを考えているわけではない。自分の利益、自分の保身のために、政治的な判断を優先し、国民の本当の必要はないがしろにされていく。そういう指導者が立った国は荒れ捨たれていくばかりである。
そこで、主のさばきが語られる(7-10節)。主が群れの主であり、牧者たちの主となることが強調される(8、10)。悪しき牧者たち、つまり指導者たちへの羊(国民)の委託は、バビロンの捕囚をもって、取り消された。そして主ご自身が見捨てられた国民、見捨てられた民に関わられる、という。「それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。…見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする」(10、11節)羊の群れに必要な牧者が備えられる約束が語られる。それは、ほかならぬ神ご自身である。しかも、その牧者の働きの焦点は、迷っている羊を見つけ出し、失われた者を救い、これを養われることにある。
これは、一義的には捕囚からの帰還と回復が暗示されているのだろう。しかしそれ以上のこと、つまりメシヤ預言が重ねられて語られている(詩篇23:1、イザ40:11、エレ31:10)。かつてイエスは言われた。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)。イエスご自身による、神の国の統治が、新しく興ることを暗示している。
目に見える国家の救済のない現実に対して、目に見えない神の支配と救済がある。この地上をさばかれる神は、この地上には救済のない者の救いとなる。「わたしは失われた者を捜し、迷い出た者を連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、超えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」(16節)。この地上に起こる出来事は、この地上の支配者たちだけのものではない。神がそこに介入し、必要とあらば、神がその力を現される、と理解すべきなのだろう。こうして私たちは、世にあって、どのような窮地にあっても、神の介入を期待し、神の支えと解決に信頼して過ごすことができるのである。
17節からは、富める民に非難が向けられている。神は肥えて強い者と、やせて弱い者とを区別される(20節)。そして富める者が貧しい者をいつまでも抑圧することはない(22節)。むしろ神はそのような「悪い獣」(25節)をこの国から取り除くという。そこには、貧しく弱い者が安心して住み、もはや脅かす者もない状況が生じる。神ご自身が救いとなり(27節)「祝福の雨」(26節)となるからである。真の牧者の下での群れの回復が約束される。それは、主とその民の間に結ばれる「平和の契約」(25)に基づく祝福である。その中心は契約の神主の臨在がその民と共にあることである(30)。
大切なのは、国の政治のために祈ることである。国の指導者たちや金持ちたちが、正しい選択と歩みができるように祈ることである。神は、弱い者、助け無き者の味方となってくださるが、国の指導者や金持ちたちが、末端の要援護者に配慮できる優しい、温かい国造りこそ求められていることである。彼らの心が祝されるように、祈らせていただこう。
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