パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書38章

2017年07月11日 01時10分49秒 | エゼキエル書
 ゴグは、マゴグの地の王である。メシュクとトバルの地の王とされる(2節)。メシュクとトバルは小アジヤの地方であるとされるが、マゴグは一体どこに位置するのか、正確にはわかっていない。ただエゼキエルが、これらの民族を「北の果て」(6節)に住む者として語っているところから、現在ロシアとして知られる地域に住む民族、つまり、一般の古代文献ではスクテヤ人として知られる民族と考えられている。エゼキエルが生まれた頃、西南アジヤは北方から押し寄せた多数の遊牧民による脅威にさらされている。エゼキエルはそのスクテヤ人が再び侵入することを預言している。それは神の民に対する総攻撃となる。そして、17節以降、神に用いられたゴグは、滅ぼされることが記されている。バビロンの王ネブカデネザルが、神の民を罰するために、神によって用いられたが、その役目が終わると、ペルシャによって滅ぼされてしまったのと同じである。攻撃者ゴグもまた自らの驕りによって破滅する。
問題は、これがいつの時代の、どんな出来事を語っているかである。これまでのエゼキエル書の流れからすれば、捕囚からの回復を前提として語っているのだから、捕囚期以降の歴史に、このような事実が起こる、と預言されていることになる。しかしそのような史実はなかなか見つけられない。実際の所、この38章、そして続く39章を文字通りに理解するのはなかなか難しい。BC7世紀頃に活躍したリディアの王ギゲスのことではないか、と考える説もあるが、むしろ、ここは象徴的に捉えた方が文脈的にも理解しやすい。
つまり、捕囚からの帰還とイスラエルの回復の預言(36章)を語り、枯骨の幻(37章)によってその究極の姿を描ききった後、38,39章で、さらにエゼキエルは、その先の終末についての預言をしている、というわけである。それは史実を超えた終末の話であって、回復された主の民が、尚も主に敵対するこの世の強大な力に囲まれ、その攻撃にさらされることを物語っているのである。
そのように考えられる根拠は、黙示録の著者ヨハネが、この箇所を引用し、自身の終末預言の材料としているからである(20:7-9)。ヨハネは、黙示録21章から終末の新しい天と新しい地の幻について語っている。この地上のものが皆過ぎ去った後に起こる新天新地、いわゆる神の国の出現の直前に起こる悪魔的勢力の神の民に対する徹底攻撃について、エゼキエルのゴグとマゴグの幻を重ねて語っている。ヨハネがこの箇所を象徴的に理解しているのは明らかだ。実際ヨハネが、その後(21章以降)に、新天新地、永遠の神の都の幻を書き連ねるのは、エゼキエルが40章以降に神殿建設の幻を展開する文脈と同じである。聖書は聖書によって解釈されると言われる部分であるが、終末預言として解釈するにしても、それなりの根拠がある、というわけだ。
ともあれ、ゴグについての預言は、イスラエルの回復が主の熱心によって完全になされることを思わせてくれる。「ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる」(16節)。しばしば、邪悪な力は私たちを押しつぶすように働く。しかしそれは神が許されたものであり、神が「わたしがあなた(ゴグ)を使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るため」(16節)である。神は、回復の恵みの中に安逸をむさぼる民に警告をしている。神の祝福を受けるならば、その祝福を受けるほどに霊的な目をいよいよ覚まし、常に、神の御前に立つことを覚えたいものだ。神が祝福してくださっているからというので、ますます、自らの関心と働きに忙しくしていくようであってはならない。大事にすべきものを大事にする心がいよいよ研ぎ澄まされなくてはいけないのである。神はもし私たちが、安逸の中に霊的な目を閉ざしてしまうならば、ゴグを送られることだろう。それは、愛の鞭である。神ご自身を認めさせ、悔い改めに導き、よりよき将来に備えさせるためである。
ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« エゼキエル書37章 | トップ | エゼキエル書39章 »

あわせて読む