パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書16章

2017年06月19日 04時54分27秒 | エゼキエル書
 先にエゼキエルは、エルサレムは全く価値のないものであり、ただ神の裁きを受け、滅亡しなければならないことを語った(15章)。16章は同じことを、不真実な女のたとえで語っている。これは聖書の中でも最も長いたとえである。生れてすぐに捨てられた女の子を引き取って育てることと、育った子が姦淫に身をゆだねてしまうたとえ話によって、主とユダ王国の関係が歴史的に語られる。
「あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった」(3節)。もともと、イスラエルの先祖は、神の特別な選びによって召し出されて、カルデヤのウルから渡ってきた者であり、最初はヘブル人(「渡って来た者」の意味)と呼ばれた。一方エモリ人とヘテ人はカナンの地に住む代表的な人種である。だからここで言われているのは、エルサレムが、人種的にというよりは、道徳的にカナン的な者だ、ということで、本来忌み嫌われるべき者たちであったが、神の一方的なあわれみによって愛される者となった、ということを語ろうとしている。
 続く4節、生まれと遺棄のたとえは、その思想を明確にする。当時、助産師は子どものへその緒が切られるとすぐに、子どもの全身に塩と水と油を塗り、七日間布できつく巻いた。その後、子どもを洗いきよめ、また子どもを布で包み、40日目にほどくのが習慣であった(4節)。しかしエルサレムにはそのようにしてくれる助産師はいなかった。古代においては、女児の出産は余り喜ばれず、しばしば死ぬまで放置されたという。エルサレムも、見捨てられ、嫌われ、遺棄された女児であったという。象徴的にはエジプトで奴隷であった状況を回顧している。「あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して『生きよ』と言った」(6節)。心痛むことばである。救い出す者がいない、全く絶望的な状況の中で、神がこれに目を留め救い出したという。望み得ない所で望み得るのは、あわれみ深い神がいればこそである。全く駄目だ、と見捨てられるような者を神は助け出してくださる。
再び、旅人にたとえられた神が、成長した女児のもとを訪れた(8節)。自分の助けた捨て子は、結婚できる年齢になっていた。すると神は、「水で洗い、血を洗い落とし、油を塗った」という。なんと。女児は、命を助け出されたが、その外見は助け出された時のままで、相変わらず、手を掛けられることもなかったのだ。そんな女児に、神は再び手をかけ、着物や装身具を贈り、着飾らせ、自分の花嫁としてくださったという。誰も見向きしないような、価値なき者に、深い愛情を注ぐ、実に物好きな神が描かれている。しかしその物好きさの故に、今の私たちも救われているのである。
 だが花嫁は、神を裏切り、姦淫の罪、つまりは偶像崇拝の罪に陥ったことが指摘される。その堕落は、ソドムやサマリヤよりもひどいものであること(47節)、従って彼らよりも厳しい裁きを受けなければならないとする(52節)。
 ここまでは普通のお話である。しかしこのたとえ話は続く。「わたしが、あなたの行ったすべて事について、あなたを赦すとき」(63節)。本来見捨てられるべき者をあわれむ者はいるかもしれない。助けた者が未だに不憫な状況であればさらに手をかける者もいるかもしれない。しかしそれらの恩を仇で返すような愚か者に、怒りを燃やしながらもなおも、愛情を注ぎ、最初の思いを変えずに、助けの手を差し伸べる者はいるだろうか。53-63節では、主の恵みによる回復が語られる。赦しがたきところを赦し、さらに祝福を考えてくださる神があればこそ、私たちの人生にも望みがある。神の愛に甘えるしかない望み無き状況にあっては、素直にその神の愛を受けるべきである。神に寄りすがって、もう一度立ち上がるべきである。神を信じて、踏みだそう。
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