パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書44章

2017年07月17日 05時09分32秒 | エゼキエル書
「彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻ると」(1節)とある。その門は閉じられたままにしておき、開けてはならないと命じられる。神殿に帰還した神が、もはや神殿から離二度と離れることはなく、神の臨在がこれから後ともにある主の決意を象徴的に言い表している。そして誰もここから入ってはならないと言う。君主ですら、内側から玄関の間を通って、そこに行き、備えられたパンを食べることが出来るだけだ。つまり、正面から入ることのできる者は、神ご自身だけである。神殿は主のものであり、そこに主の栄光が臨在するのだから、この主によって神殿に入ることが出来る者、出来ない者が区別される。
だから、「心にも肉体にも割礼を受けていない」(7節)外国人は入ってはならないとされる。この外国人は、そもそも、戦争捕虜のことであった。つまり捕囚期前には、このような外国人を神殿の雑務に就かせていたのである。少し背景的な説明が必要な部分である。つまりそもそもレビ人は、歴史的にヤコブの妻レアの第三子レビに由来する部族であるが、出エジプト以降、彼らは契約の箱の運搬、そして幕屋や聖所での奉仕を担うようになった。彼らは同じレビの子孫の中のアロンの家の監督下に奉仕する秩序を維持した。ところが、ダビデ、ソロモン時代に入って、定められた場所での神殿礼拝が確立され、幕屋運搬や組み立ての用が必要とされないようになると、多くのレビ人は、祭司として用いられるようになり、また神殿奉仕の他に、民を教える役割も果すようになった。そしておそらく、このような経過の中で、神殿奉仕の卑しいと思われる仕事、つまり、神殿の門を見張る警備の働きや、いけにえとして持ち込まれた動物をほふったり、調理場で解体したりする仕事は、戦争捕虜にさせるようになったのだろう(2列王11:4-11)。しかしそうした骨惜しみと神に対する不誠実さが、イスラエルの宗教を堕落させたのである。たとえ卑しい仕事であれ、神の宮の中の奉仕は、外国人ではなく、レビ人にさせるべきことが命じられる。彼らは、かつて外国人に任せていた宮の雑務に当るべきこと(11、14)、祭司として聖所で仕えてはならない(13)、と命じられる。聖なる宮の中での仕事はレビ人に限定する秩序が定められ、神殿礼拝の秩序が回復されている、と考えるべきなのだろう。 
また、レビ人の中でもツァドクの子孫だけが、神殿の祭壇で直接祭司の働きをすることができるとする。ツァドクは、ダビデの時代にエブヤタルと並ぶ祭司であったが、後継者ソロモンを指示し、ソロモンに仕えた祭司である。最後まで忠実であった、ツァドクの子孫を監督的な立場とするように命じられる。16節以降は、出エジプト記やレビ記に記されている規定と変わらないが、単なる繰り返しではない。捕囚帰還後、背教の歴史の中で忘れ去られた主の祭司の聖なる任務を思い起こさせている。結局、聖と俗の区別を教える祭司が、聖さを保つことが出来なければ、イスラエル全体が聖さを見失うことになる。
レビ人にしろ、祭司にしろ、言われている教訓は大きい。やはり神の宮、教会に仕える働きは、信仰による働きである。教会の奉仕には、教える働きのみならず、また聖なる礼典に携わる働きのみならず、それこそ、卑しいと思われる奉仕もある。しかし神は、その宮の働きにおいてパウロ的な言い方をすれば、どの奉仕も、「心に割礼を受けている者」、信仰を持っているものがするように定められた。どの奉仕も、祈り心をもってなされることが重要で、たとえ会堂掃除であれ単純な準備であれ、神の栄光を現すように、と信仰と祈りを持って、心からなされる時に、それは来会者の心を打つような働きになる。
 28節以降は、祭司の生計について語る。祭司は、常に神の事に集中してその務めを果たすことが本分である。だから彼らの働きは、ささげ物によって賄われなければならない、とする。祭司を支援し、神の働きに向かわせることは、神の民の責任であると同時に、神の民の特権である。また、それが神の民の祝福となって帰って来る。奉仕もささげ物も重要な務めであると心得て神の家に仕える者であろう。
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