パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

イザヤ書9章

2017年02月09日 05時18分02秒 | イザヤ書
「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(2節)。人が辿る闇は、しばしば一瞬ではない。それは、何年も、いや何十年も、このまま人生が終わってしまうのではないか、と思うほどに、長く深い闇であったりする。そういう中で人は人生を諦めかけてしまうし、諦めてはいけない、と自分に語りかけることにも疲れてしまうことがある。
 「ゼブルンの地とナフタリの地」は、ガリラヤ湖北方の領域で、最初にアッシリヤに侵略された土地である。しかしその同じガリラヤに、今度は、神の恵みが真っ先に下される、と言う。アッシリヤに蹂躙され、苦しめられたその土地に、今度は、キリスト降誕の恵みがもたらされる。それは、これから起こる近い未来と遠い未来の二重預言となっている。
 その神の恵みは、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれ」、私たちの重荷をその肩に担ってくださることによって現されるのである。その人物は、「不思議な助言者」である。意味的には人間的なものを遙かに超えた、超自然的な知恵を提供するお方、ということだろう。人間的な知恵によって国家を滅びに至らせたアハズ王のようではない。むしろ「力ある神」つまり、神そのものである。そして「永遠の父」。人間の支配は断続的であるが、この王は、永続する統治権を行使する。しかもただの支配者ではない。父としての配慮を示すお方である。「平和の君」は、完全な統治を実現する、という意味だろう。これら全てが、その主の熱心さによって実現する。神ご自身が不動の決意を持って、何事にも妨げられない主権を行使して実現するというわけだ。実際に、これはキリストにおいて実現したと理解すべきものである。
 さて8節以降11章6節までは、イザヤ特有の書き方で、7章1節から9章7節までを別の観点から再述し印象づけようとするものである。先にイザヤはユダのために語ったが、今度はイスラエルに対して語っている。エフライムは北王国で最も重要な部族なので北イスラエル王国の代名詞として用いられる事が多い。エフライムは高ぶり、神を信頼しようとせず、むしろ自分達の人間の力を過信した。彼らは、「れんがが駄目になったらもっと高価な切り石で、いちじく桑が駄目になったらもっと高価な杉の木で、立て直せると(10節)自信のほどを示している。ただ、すべてを握るのは神である。神は、「レツィンに仇する者たち」つまりエフライムに対する敵対者としてさらに強いアッシリヤを起こし、裁くと語られる。
 しかしそんな警告も、イスラエルには効果がない。それが人間の愚かさである。そしてたとえ神の裁きを受け苦しい目にあっても、悔い改められないのが、その愚かさの極みである。こうして神の御怒りは、私たちの上に留まり続けることになる。神の裁きを感じる時に、私たちがしなければならないことは、その裁きに気づく心を持つことだろう。腐り果てることでも、弱ってしまうことでもなく、素直に悔い改めることである。裁き主である神に素直に心を開き、神を心から尋ね求めることだ。確かに私たちにみどりごを与えてくださり、私たちの生活に平和を取り戻し、それを永遠のものとし、父なる配慮をしてくださる神に信頼することである。
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