パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

イザヤ書49章

2017年03月21日 05時22分23秒 | イザヤ書
 「しもべ」とは誰のことを言っているのだろうか。しもべは、神に召され、神の栄光を現すことが約束されている。しもべは、与えられた使命が困難なものであり、それが「むだな骨折りとなり、むなしく自分の力を使い果たす」ものになることを予測している。しかし、「私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある」(4節)と語り、自分の使命が、イスラエルのみならず、諸国の民、つまり異邦人にも救いをもたらすものであることを確信している(6節)。
 「しもべ」をイスラエル民族であると集団的に理解することもできるが、5節でそれは否定される。しもべとイスラエルははっきり区別されている。神の使命を身に受けて、困難であることを予測しながら、これに立ち向かうという点においては、イエス・キリスト個人以外に誰がこれに該当するだろうか、という気もする。すでにイザヤは40章から48章に至るまで、まことの生ける神について語り尽くしてきた。またその神がクロス王を用いて、捕囚の民イスラエルを解放する恵みを語り伝えてきた。49章に入り、イザヤは、神に遣わされたしもべについて語る。それは、バビロン捕囚からの解放とエルサレムの再建を超えて、さらにメシヤによってもたらされる救いと希望を語っている。
 7-13節は、一般にしもべの歌とされる。しもべは、捕らわれ人、やみの中にいる者を解放する。直接的にはクロスのことを指しており、バビロン捕囚からのイスラエルの解放が語られているのだろう。しかし、13節以降、「天よ喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩む者をあわれまれるからだ」とあるあたり、それは、捕囚からの解放、エルサレムの再建を超えて、イスラエルの大いなる祝福、つまり終末的な解放、救いを語っているようだ。
神の祝福は、「わたしを待ち望む者は、恥を見ることがない」(23節)という約束で締めくくられる。私たちには、神に従う中で、このままでよいのだろうか、思うことが度々あるものだ。神を信じても何も変わらない。何も起こらないし、何の助けのしるしすら見ることができないと。しかし、神は、二つのたとえをもって、愛する者に対する変わらない愛を示される。一つは、「たとい女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」(15節)母親の愛の深さをとりあげて、その母親たちが忘れるようなことがあっても、という。母親が乳飲み子を忘れるわけがない。ならばまして神は、という。またもう一つは、手のひらに、恋人の名を入れ墨にする古代の習慣(雅歌8:6)を取り上げ「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」という。実に、神は、私たちの名を自分の身に刻むほどに、私たちを愛している。ならば、神が約束を果たさないことがあろうか、というわけである。
神は、私たちの味方であり、私たちの救い主、贖い主、そして強き助け手である。神の大いなる守りと祝福に期待し、安心して人生を歩ませていただく者であろう。


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