パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇96篇

2016年10月18日 05時53分06秒 | 詩篇
ギリシャ語の七十人訳聖書の表題は、「捕囚後に、主の宮が建てられた時の、ダビデの歌」となっている。ダビデは捕囚前の人であるから、ダビデ風に読んでみた歌、ということになるのだろう。そして確かに、捕囚後書かれたとされる1歴代誌に、この詩篇に共通することばが見られる(1歴代誌16:23-33)。歴代誌が引用したのか、それとも詩篇が引用したのか、どちらが先なのかはわかっていないが、少なくとも捕囚後、つまりバビロンからの解放と神殿の再建に際して、ダビデ風に書かれたもの、と見ることができる。
 さて詩人は、賛美への招きから筆を起こしている。それは「全地」に対するものである。確かに、捕囚後ユダヤ人は、自らの解放を経験する中で、神が万物の支配者である感を強くしたのだろう。2節「御救い」、3節「奇しい業」は、まさに捕囚からの解放という経験を振り返るものであり、そこに賛美の根拠も置かれている。しかもそれは、単に自分たちの確信に留まらない、全地に知らせるべきことであり、知るべきことでもある。まさに宣教は、このような営みである。それは教義を広めることではなく、また仲間を集めてセクト化することでもない。実在の神について自らの確信を語り、経験を語り、喜びを語り、分かち合うことである。私たちの神は、「大いなる方、多いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方」(4節)。聖書の神が作り物の神などではなく、生けるまことの神であること、その力と尊厳を認めていくこと、それが宣教そのものとなる。
しかもそれは、「新しい歌」(1節)をもって賛美されるべきことである。新しいと訳されたヘブル語はハダシュ、おおよそ詩篇では、主の解放に関連して使われることが多い。また単純に古い歌に対して新しい歌を、と言っているわけではなく、新しい経験に基づいて新しい歌をと言っている。そういう意味では、1節は、最後の13節に呼応する形で語られている。つまり、主は来られる、というのは、明らかに終末的なイメージを語っている。終末の新しさに近づいているが故に、さらに新しい歌を、ということだ。礼拝の度に新しい歌を歌うのは、ただ古くなったから新しくしようというのではなく、自らの新しい経験に基づき、これからさらに加えられる新しい経験を目指していくためでもある。主に従う人生に、マンネリはない。
そういうわけで、詩篇の著者は言う。「栄光と力を主にささげよ」(7節)、「御名の栄光を主にささげよ」(8節)。主にささげるべきことが勧められる。しかし、主にささげるべきは「モノ」ではない。主の栄光を主にお返しすることである。すべては主の恵み、主のあわれみによって満たされている。私たちが自ら得たものはない。すべては主に着せていただき、主が備えてくださったものである。パウロは、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、~(略)~何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。」(使徒17:24)と語っているが、神の威光と尊厳を覚え、神に帰すべきモノが、私たちに豊かに許されていること、恵みと守りが与えられているところを覚え、感謝するところに、ささげ物の意義がある。
 つまるところ、主を認めることが、礼拝のすべてである。とかくすると、私たちは、牧師のメッセージの中に、魂の慰めを求めて、力づけられて、新しい一週を生きるのだと勘違いしてしまいやすい。しかし、礼拝の中心は主である。私たちの魂に触れ、気づきを与え、引上げ、驚くべき御救いと御業に導いてくださるのは主である。真実をもってこの世界を治め、近づく新しい主の日に私たち一人一人を招き、その安息に与らせてくださる主にこそ心を留めて歩ませていただこう。
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