パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

イザヤ書12章

2017年02月12日 05時28分34秒 | イザヤ書
1-12章は、イスラエルに向けて語られた裁きと回復のメッセージであった。13章から23章までがまたもう一つの区切りとなり、イスラエル以外の諸外国、バビロン、ペリシテ、モアブなどに対する裁きのメッセージを収録したものとなっている。13章は、バビロンに対するメッセージである。
当時バビロンは強国ではあったが、まだアッシリヤに勝る勢力を誇っていたわけではなかった。しかし、神はそのバビロンが、アッシリヤを凌いで、やがてユダを討ち滅ぼす国となるとイザヤに語る。そしてバビロンの高慢も神に打ち砕かれることを告げるのである(17-22節)。つまり、歴史を動かしているのは、バビロンではない。バビロンをご自身の裁きの道具とされる神ご自身である。国が興り、国が滅ぶのは、単なる歴史上の出来事ではない。神の御手に導かれて起こっている事柄である。それは単なる偶然でも、人間の愚かな失敗あるいは知恵ある成功によって起っていることでもなく、ただ、神がすべてを許し全てを成り立たせている、霊的な出来事である。
しかし人間は、自分の身の周りに起こっていることに神の摂理を見出す力がない。だから、自分の一挙手一投足に、自意識過剰な執着を抱き、成功すれば自分の力を思い、失敗すれば自分の無能ぶりを思いながら生きている。しかし人間はそんなに完璧に人生を歩んでいるわけではない。ありうるはずのない成功、陥るはずもなかった失敗に、得意になったり、落ち込んだりして生きているに過ぎない。すべては神の業である。
イザヤは、「主の日」のイメージを語り伝える。それは歴史のクライマックスであり、終局である。その日、神はご自身の怒りを露わにされる(2,3節)。またその日、世界は決定的に破壊される(4,5節)、その破壊は、宇宙的なものである(9-10節)。またそれは、正義が明らかにされる日である(11節)。誰もこれを免れる者はない、それほど容赦なく、逃げ場のないものである(14-16節)。
ここも、バビロンの滅亡という歴史的な一事件を語っているのではなく、終末的な出来事を見ていると考えてよいのだろう。実際、バビロンが滅ぼされたのは、BC550 年のクロス王による。しかしこの時、クロスは、バビロンを無血占領し、市街も城壁もそのままであった。完全な荒廃状態になったのは、アレクサンドロス大王の後継者セレウコスが、セルキア建設し、住民の移動を命じた時であったとされる。つまり、これをクロスの時代とすれば、内容的に矛盾するのだ。
聖書が描く歴史観は、円環ではない。終点を持つ直線的歴史観である。それはやがて終わりを遂げる。この世界が未来永劫まで続くことはない。イザヤは、バビロンの滅亡を告げると同時に、終末の滅びをもここで語り伝えている。いわゆる二重預言である。大切なのは、神を畏れることである。そうすれば、私たちの穴だらけの人生も、よきに導かれることを信じることができる。神を畏れ、神に自らの人生を委ねて歩ませていただこう。
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