パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇89篇

2016年10月11日 05時55分39秒 | 出エジプト記
第三巻最後の詩篇であり、第三巻初めの詩篇と共通する内容を持つ。つまり、いずれも信仰者にとっての難問を扱っている。73篇では、悪者の繁栄について、89篇では、神の契約が破られ、その真実さが見えにいくい状況での苦悩について触れている。
 詩人は、まず神の契約を取り上げる。「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる」(3,4節)。また神の力を讃えている。「万軍の神主。だれが、あなたのように力がありましょう」(8節)。神の力は地上に現わされ、彼は私たちの敵を追い散らされる。だからイスラエルは、神の格別の祝福を受けた民であると言える。「幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。」(15節)。続いて、著者はダビデと契約を結ばれた神の誠実さを歌っている。「わたしの真実とわたしの恵みとはかれとともにあり、わたしの名によって、彼の角は高く上げられる。…わたしの契約は彼に対して真実である。…わたしは、わたしの契約を破らない」(21、27,28、34節)。神は、ダビデを愛し、ダビデに格別にいつくしみと恵みを注がれた。神はダビデと、父と長子という関係を結ばれ、とこしえの契約を結ばれた。
しかし!神はこの契約を破っているのではないか、というのが、38節以降の訴えである。「しかし、あなたは拒んでお捨てになりました。あなたは、あなたのしもべの契約を廃棄し、彼の冠を地に捨てて汚しておられます」神はダビデを高めると語ったが、そうではない。今ダビデは戦いに負け、そしりを受け、敵のあざけりの的となっている(41節)。ダビデの剣の刃は折り曲げられ、戦いに立てないようにされている(43節)。この恥辱の状況はいつまで続くのか(46節)。人の命は短いというのに、後先はそれほどもないというのに(47節)。人が自分を自分で救い出す力などないというのに(48節)。だから神よ。あなたの誓いをもう一度思い起こしてほしい(49節)というわけだろう。
しかし著者が、そう感じた問題は、ダビデに対する神の契約の性質を誤解していたからである。ダビデに対する神の契約は、イエス・キリストにおいて完全に成就した。神の契約は、歴史的に見て、破られたように思われた時もあった。確かにイスラエルが滅亡する時代、人々はこの詩篇を読みながら、ダビデの契約を打ち破られた神を思わされたことだろう。もう二度と回復することもない、絶望的な思いを持って、背を向けられた神を覚えさせられたことだろう。しかし、実際には、神の契約の成就は、初めからイエス・キリストを目標としており、イエス・キリストにおいて完成するという神の計画も真実さも、変わることはなかったのである。
いつも私たちは、目先のこの世的な浮き沈みによって神の契約も、神の恵みも、神の真実さも考えやすい。神の真実さは、神が私たちに対してどれほどこの世的な祝福を加えてくださったかではかりやすい。しかし、神の真実さは、イエス・キリストにおいて表わされ、その私たちに対する祝福は天上に豊かに蓄えられている。この世において私たちが受ける報いは、少なく、あるいは奪われ、そしりを受け、辱めを受けていることがあるかもしれない。しかし、私たちに対する永遠の契約が取り去られることはないし、天上の富も取り去られることはない。この世の浮き沈みでは測ることのできない、神の恵みがある。もちろん、あの世だけが楽しみというわけなのではない。この世にあっても、主の御旨の中に祝福は供えられているはずである。それは主の主権によることであり、信頼を持って待ち望まねばならぬところである。「ほむべきかな、主」(52節)と期待を失わない者であろう。
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