パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

イザヤ書48章

2017年03月20日 05時10分47秒 | イザヤ書
 この章は40章からの後半の区切りと見なされることがある。というのも、48章が呪いの宣告で終わり、バビロンの滅亡とクロスに関する預言も、ここまでとなっているからだ。これ以降は、より後の時代のメッセージを伝えている。
1節「聞け」と言う。率直にイスラエルの不信仰が責められている。イスラエルは、本来、祝福の基となるために選ばれた民であった。しかし、彼らは全く神の民としての証を立てることができないでいた。3節、「先に起こった事」は、恐らく出エジプトのことであろう。神はモーセに出エジプトの計画を告げられたが、イスラエルの民はそのことばを信じなかった。彼らはいつも心を頑なにし、その心は偶像に向かった。「首筋は鉄の腱、額は青銅」(4節)と比喩的に語られるように、服従できず、堅く心を閉ざしていた。だから、今、神はイスラエルに新しい出エジプト、実際には、クロス王によるバビロン破壊と、イスラエルの捕囚からの解放を告げても、それがわからない。「新しい事」「あなたの知らない秘め事」を告げても、それを理解する力がないし、信じることもできない、というわけである。
 「それは今、創造された。ずっと前からではない。」(7節)。この「今」をどのように考えるか。神の創造のみわざは、はるか創世の時代に終わっている。しかし、実際に神が、この混沌とした世の中に、新しい創造を起こすことなど難しいことではない。バビロン捕囚の状況がどれほど動かしがたい現実であれ、神に、新しい時代を興すことは、不可能ではない。不可能性の中に神の可能性を信じる信仰が求められている。
 12節、再び「聞け」と言う。前半の「聞け」と異なるのは、焦点がイスラエルの民ではなく神に向けられていることである。神の可能性を信じるために、神をよくよく知るべきである。そもそも私たちが信じるべき神はどのような方か。「わたしがそれだ」は、欄外中には「私は同じだ」「わたしは変わらない」と訳すこともできるとされる。つまり、神の唯一性、不変性が主張される。「わたしは初めであり、また終わりである」は神の至上性と永遠性を意味する。第一の出エジプトを起こされた神は変わることがない。他に新しい神が起こることもない。その神が、バビロンに向かい、語った通りのことをする、という(14節)。
 さらに神がご自身の性質を明らかにされる。17節。「あなたを贖う主」であるという。神は私たちに「益になることを教え」「歩むべき道に導き」何よりも、私たちをしあわせにするお方である。それははったりではない。19節にイメージされるように、アブラハムの人生とイスラエルの歴史に証しされている。
大切なのは、このメッセージを耳に、決断を迫られた人々が誰であったかである。それは、後の時代、バビロンの国で、奴隷ではなく入植者として自由な生活をし、その豊かさに甘んじていたユダヤ人であったのではないか。「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ」(20節)。それは、後少しで滅びようとするバビロンで、安逸に暮らしていたユダヤ人に対してであろう。主のことばは、常に本当の幸せのありかがどこにあるのかを予め語り継げている。

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