パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

イザヤ書47章

2017年03月20日 05時10分02秒 | イザヤ書
 バビロン滅亡の預言である。バビロンの繁栄は永遠ではなかった。「優しい上品な女」「王国の女王」と呼ばれたバビロンは捨てられ、貧しさと恥を味わう女とされる。「下って、ちりの上にすわれ」「王座のない地にすわれ」(1節)、「ひき臼を取って粉をひけ」「顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ」(2節)、「裸は現われ」「恥もあらわになる」(3節)攻められたことのない時の支配者であったバビロンが一転して、奴隷となる。彼らがどんなに呪術を行っても、その魔術は何の役にも立たないという。まことの生ける神に対比して、死せる、偶像の神。ただの石であり、木以上の何物でもない神に拠り頼む事の愚かさが、指摘される(9節)。それは46章の続きでもある。しかも生ける神は、もはや恵みの神としてではなく、裁きの神として、バビロンに向かう。神の怒りの火が彼らを全く焼き滅ぼすと宣告される(14節)。実にバビロンは、神によって裁かれ崩壊していく。
 バビロンは、イスラエルの懲らしめの道具として、神に用いられた。エルサレムは破壊され、南ユダ王国は滅ぼされ、その民は、バビロンへ連れ去られる捕囚の民となった。それはイスラエルにまことの神を知らせるためであった。しかし、自分自身がただ神の道具であることを弁えなかったバビロンもまた、その残虐さと横暴と自己過信の故に報いを受けることになる。実に、神は正義の神であって、単なる横暴な裁き主ではない。神は正義を貫かれる。
 たとえ、バビロンの軍隊がどんなに堅固に思われても、国の栄華が永久不滅のように思われても、神が裁かれる時に、それは脆く、一瞬の内に根こぎにされてしまう。神の前に特別はない。例外はない。「わざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない」「破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやってくる」(11節)。
 神の裁きのことばは、聞いていて気持ちのよいものではないが、十字架のイエスを覚え、罪を悔い改め、十字架に拠り頼んでいるのであれば、決して神の裁きを恐れる必要はない。事実神はご自身を「贖う方」と語っている(4節)。神は「万軍の主」であり「聖なる方」であり、いわゆる裁き主であると同時に、贖い主である。十字架によって私たちに対する神の裁きは取り去られている。自分が罪人であることを認め、十字架が自分の罪の赦しのために必要なものである、と受け入れるほどに神の前に遜ったのであるならば、もはや神の前に高慢になりようがない。大切なのは、人間は愚かで、忘れやすい者だから、その原点に立ち続けることを意識することなのだろう。神のことばを覚えつつ、それを無視した横暴さを持たないことなのだろう。わかっていて、敢えて無視する心が人にはある。それが人間の高慢さであり、弁えのなさである。十字架の恵みを放縦としてしまう愚かさが、人の心にはある。その愚かさを認めて、人間の弱さを認めて、常に、自らを放縦に委ねるのではなく、神の恵みに拠り頼む心があれば、裁きは恐れるものでもない。自らの弱さをしっかり認めて、神の恵みに拠り頼む一日とさせていただこう。


48章 バビロンから逃れよ
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