パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エレミヤ書40章

2017年05月18日 05時11分17秒 | エレミヤ書
 バビロニヤによって国が滅ぼされた後、多くの者が捕囚の民として連れ去られたが、ユダに残された者たちもいた。彼らは、男、女、子どもたち、そして国の貧民たちであった。ヘブル語では比較級が用いられているので最下層の者を意味する。また、同格であり、別のクラスを意味するわけではない。つまり、バビロニヤに連れて行かれず、ユダに残された者たちは、皆貧民、役に立たない捨てられた者たちであった。彼らは、もはや「渡って来た者」を意味する(先祖アブラハムが他国から移住して来たことに由来する)ヘブル人から「ユダに残された者」を意味するユダヤ人と呼ばれるようになる。蔑称である。ユダヤ人は、この出来事に起源を発すると見て良い。
さて、バビロンへ引いて行かれる捕囚の民の中にエレミヤがいた。彼は、鎖につながれていたが、釈放され、全くの自由を保証されている。もしバビロニヤに一緒に行くのであれば特別な待遇があることを語られている。しかしエレミヤは、ユダに残された人々と共に、戦火で荒れ廃れた地に住む事を選ぶのである。
バビロニヤの侍従長ネブザルアダンのことばが、イスラエルの神を認めるのみならず、エレミヤの人格を認めるものとして興味深い。彼がエレミヤに贈り物を提供したのは、戦火を潜り抜けながら、主のことばに忠実に生き、神のことばを証しし続けた存在への敬意を示している。彼は敵に味方したわけではなかった。裏切りの報酬を欲したわけでもなかった。ただ、主のことばに従う不器用な人間に過ぎなかった。彼が成し遂げた仕事は、神のことばの正しさを敵にも認めさせたことである。しかし、それ自体が評価に値する。献身者は、自らを献げきって神を証することに、その存在意義がある。
さて、敗戦後のユダにおいては、新たな支配者に対するゲリラ活動をいかに治めるかが課題であった。ネブカデネザルは、アヒカムの子ゲダルヤをその国の総督にした、という。アヒカムは、エホヤキム王時代に、王と民の指導者によって迫害されたエレミヤをかくまい、民衆の暴行から救い出している(エレミヤ26:24)。ゲダルヤもエレミヤに対して援護的であったのだろう。ネブカデネザルは、ダビデ王家の血筋の者を信用せず、このゲダルヤを総督として起用した(2列王25:22)。彼は民に、バビロニヤに仕えて日常性を回復するように説得した。基本的にエレミヤのメッセージの繰り返しである。こうしてユダヤは一瞬の平和を取り戻すことができた。
しかし、そんなゲダルヤのもとに、王族の者であるイシュマエルが謀反を企てている噂が告げられる。背後にアモン人の王バアリスがいたのは、彼が反バビロニヤ勢力の急先鋒であり、イシュマエルを援護し、あわよくばユダを併合しようと考えたためなのかもしれない。ゲダルヤはヨハナンの報告に耳を貸さなかった。それが彼の命取りとなった。そこにリーダーシップの教訓を見出す注解書もあるが、実際このエピソードの意図はよくわからない。ただここはゼデキヤ以降のユダの運命を描いている。それは、ダビデ王朝終焉後の新しいユダの秩序を描いている。そしてその新しい秩序も神への信仰に立つか否かが問われる世界であることは、先を読み進むことによって知られるのである。信仰が全てである。
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