パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇95篇

2016年10月17日 05時44分26秒 | 詩篇
礼拝への招きの詩篇である。実際この詩篇は、カトリック教会、聖公会さらにプロテスタント教会諸派にて礼拝招詞の詩篇として用いられてきている。ギリシャ語の七十人訳聖書は、これをダビデの作とし、表題に「ダビデの讃美歌」と付しており、ヘブル人への手紙の著者も、その解釈を支持しているが(4:7)、他の礼拝用の詩篇(96-100篇)と同様に、捕囚帰還後に作られた、とするのが定説である。つまり、BC516年、エルサレムの神殿が再建された喜びの中で歌われたと考えられている。伝統的にイスラエルでは、この詩篇は、新年祭に朗唱したようであるが、7節に出てくる「きょう」が、その特定の日を指すものであるかどうかは、わかっていない。
さて、「さあ、主に向かって、喜び歌おう。我らの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」(1節)詩人は、主に対する賛美を呼びかける。というのも、「主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である」からだ。大いなる神を認めるところに、私たちの賛美がある。私たちが神を賛美できないと思うようなことがあっても、大いなる神を仰ぎ、認めるところに、賛美は起こってくる。
そういう意味で、礼拝は、感謝よりも賛美から始まる。礼拝に集って、いきなり感謝しますという気持ちに自分を持っていくことは難しい。しかし、まず、招詞によって、すべての神々に勝る大いなる神の前にあることを覚え、姿勢を正すところから、神を賛美する心は起こってくる。「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂は主のものである。海は主のもの。主がそれを作られた。陸地も主の御手が造られた」(4,5節)。実に、神の大いなる御業を思う時に、私たちは、神の前に伏し拝まざるを得ない。神の前にひれ伏すことが、礼拝の本質的な行為である。
 7節後半以降は、それまでの招きの調子と打って変わり、警告的である。このため、二つの詩が組み合わされたものであると考えられた時期もあるが、むしろ招きと警告を基調とし、礼拝の精神を教える内容として歌われたものなのだろう。
だから、7節からすれば、今日、主のことばに聴き従う心構えを持つのが礼拝である。礼拝は、かつてイスラエルと交わされた契約を、今日再び交わす行為でもある。今日神の前に出て、神の声に従う決意を新たにする行為である。しかしながら、人の心は実に勝手で気ままであり、いつでも神に対して心頑ななものであろう。「メリバ」は「論争」を、「マサ」は「試みる」を意味する。その言葉の由来は、出エジプト17:7に詳しいが、私たちの神に対する心のありように対する警告である。先に述べたヘブルの著者が指摘するように私たちは自分自身に神に信頼しようとしない不信仰な頑なな心があることを意識化し注意すべきなのだろう。人には打ち砕かれぬ心がある。神がいるとわかりながらも、神を認めない私たちの現実がある。あるいは神を認めながら、神の声に素直に聞くのではなく、神と論争をする私たちの現実がある。礼拝はまさに私たちの神に対する心が問われる場なのである。
そういう意味で、この招詞は、詩文としての文学的な美しさを犠牲にして、実際的な信仰上の緊急性に喚起を促すことをもって閉じられている。しかし礼拝というのは、ある意味でそのような実際的なものである。神の前にしなやかな心を持って、大いなる神を覚え、共に一つとなってひれ伏す、そんな中で、世俗性の中にクリスチャンとして生きる新たな決意を持って立ち上がり遣わされていく。礼拝が意義あるものとなるのは、まさに一人ひとりの神への信頼と服従にある。
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