パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エレミヤ書42章

2017年05月20日 05時30分15秒 | エレミヤ書
 イシュマエルのクーデターから逃れたイスラエルの民は、カレアハの子ヨハナンと、彼と共にいた将校たちとエレミヤのもとに集まってきた。もはやカルデヤ人の報復を逃れて、エジプトに下り聖地を見捨てるべきか。それとも、ユダヤに残された最後の選民と思い、この地に敢えて踏みとどまるか。彼らは迷い、エレミヤに尋ねた。「あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように」(3節)。「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです」(6節)
しかし、神の答えは遅れた。10日後、神はエレミヤに答えられた。なぜ、10日も答えが出なかったのかはわからない。けれどもこれによって、イスラエルの民は、神の答えを待つこともなく、ほぼエジプトへ逃れる自分たちの判断を固めつつあった。43:4には、エレミヤの書記バルクがイスラエルの民に留まるよう説得を続けていたことが伺える。
神に御心を問いながら、待てない人の心がある。結局彼らもまた、サムエルを待てず生贄をささげてしまったサウルと同じであった(1サムエル13:11)。10節以降は、そのような神に問いながら、自分の決断を優先させる民に対する警告となっている。彼らの判断に必要なことはすでに語られていた。神は「彼らを建てて、倒さず、植えて、引き抜かない。わざわいを思い直した」(10節)という。状況は極めて不利で、物事が好転するどころか、さらに脅かされるような状況があるとしても、神は、あわれみを施すと語る。神はリーズナブルな報いを与えると言っているわけではない。あわれみを施す、という。あわれみ、というのは、全く分相応な祝福である。私たちが心に留めるべきところは、この一言、主のあわれみに心を留め、実際にそれをいただくことではないだろうか。
19節以降は、神のことばに重ねる、エレミヤ自身の警告になる。エレミヤから語られた神のことばは、彼らの思いとは全く異なっていた。エレミヤは、この地に留まり、この地で、神のあわれみを受けよと語る。そしてもし、カルデヤを逃れてエジプトに行こうものならば、カルデヤの剣が追いつくであろうと語る。
 人は既に自分の心に答えを持っているものである。相談があるとやって来ても、実際には既に自分なりの答えを持っている。つまり自分なりの答えを補強してくれる意見が欲しいだけである。だから意に反すれば、納得せずに、別の相談を繰り返すことにもなる。
 しかし信仰の歩みは、自分の思いはあっても、まず神が語られることには聞き従うものである。神の権威のもとにあるのだから、神のみことばに従うことを第一とする。それができるようになっていくのが、信仰の成熟である。神のことばは、時が来れば成就する。だから、神のことばに従う結果が、自分にとっては魅力がないと思えることであっても、あるいは、無駄と労力が多いだけ、と思えることであっても、従っていく時に、私たちの思いを超えた、神の計画が実現する。従順を口にしながら意に反すれば不従順になる自己流の信仰ではなく、神のことばに従い抜いて確かに神の祝福を受ける者であろう。
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