パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇103篇

2016年10月25日 05時10分06秒 | 詩篇
「ダビデによる」とある。ダビデの作の中では、個人的な色彩の少ない、一般的な主題、賛美を扱う作品となる。しかし、実際にはダビデではなく、民族的な罪の赦しと神の恵みを詠う内容からして、第四巻に特徴的な捕囚期後の作で、聖都回復の喜びを詠うものとする説もある。
この詩に嘆願はない。ただひたすら「主をほめたたえよ」と勧める。そして著者は、私たちが今まで神よりいただいた祝福を、あれこれ数え上げることを助けてくれる。まず、私たちにとって一番大きな感謝は、主が赦してくださって、和解の関係に入れてくださった、という事実だろう。私たちは、「すべての(注目すべき)」咎を赦された(3節)。本来は滅ぼされ、歴史の狭間に捨てられて当然の、虫けらに過ぎない私たちであるが、神はあわれみ、いつくしみ、滅びの穴から贖いだしてくださったのである(4節)。私たちは神の子とされ、罪の奴隷から神のしもべとされた、とはよく言うのであるが、詩人は、神は「あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」と、王として扱ってくださった(4節)ことを指摘する。確かに放蕩息子も、家の使用人としてではなく、息子としての立場を回復された。神は単に私たちを救ってくださった、私たちを神の家族の一員にかろうじて加えてくださった、というのではない、私たちを最愛の一人子として迎え入れてくださった。
そして救いは過去の出来事ではない。「あなたの一生を良いもので満たされる」(4節)という。著者は、神が私たちに対して、これからもめぐみと愛の方であることを確信している。「主は絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって、私たちに報いることもない」(9,10節)何度も、私たちの魂に語り聞かせたいところではないか。
神は私たちのしたことを根に持って、最後の最後まで、気の済むまでその償いをさせるような方ではない。神が、罪の代価を最後のびた一文まで支払って貰う、というきっちりされた方であるなら、私たちは決して生きながらえることはできない。いや、イエスの十字架が、実のところ最後のびた一文まで支払ったのである。だから私たちに対しては、「咎にしたがって報いることもない」(10節)のだ。神の恵みは、空の高さに勝って遙かに大きい(11節)。空を見上げてみよう。神の懐の深さがどれだけであるか、わかりたいものである。神は、私たちの罪を、はるか遠く、地平線のかなたに投げ捨ててくださるお方である(12節)。それは西と東、全く対極にあり、決して接近することのないものにたとえられるように、遠く話される。神が忘れてくださったものをいつまでも覚えていてはならない。
神は私たちが単なる土くれに過ぎず、風に吹き飛ばされる籾殻のような,はかない存在である事をわかっておられる(15節)。しかし、たとえそうであれ、神を畏れ、神の契約を守ろうとする者を、神は決して見過ごされることはない。神は小さな応答を確かに捉え、これに報いられるお方である。主の恵みを経験するにおいて大切なのは、私たちの側に、主の契約を守る心、その戒めを行う歩みがあるかどうかである(18節)。ヒゼキヤは、神の恵みに応答しようとしなかった(2歴代32:25)。
 著者は、神の恵みを語り、神のご性質を語り、その神ご自身の支配の中に私たちがあることを、繰り返す。「主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める」(19節)。その事実に立つ時に、著者が勧めるように、私たちの心には、主をほめたたえる思いがわいてくる。しかも私たちが神を賛美する時は、私たちだけではない。天の軍勢も、すべての被造物も神を讃える。すべての賛美に、声を合わせて、心からの賛美をささげたいものである。
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