パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇91篇

2016年10月13日 06時05分51秒 | 詩篇
 詩篇90篇と全く対照的である。詩篇90篇では、人間の命のはかなさが語られ、長く続く試練の中で、神の恵みが強く求められている。一方91篇では、神が人をあわれみ、恵みを施されることは約束であり、絶対の事柄である。90篇では、「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。」(1節)「主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください」(13節)と嘆願が続く。しかし、91篇では、「いと高き方の隠れ場に住む者は全能者の陰に宿る」(1節)と最初から確信的に語られる。後半は、「助け出そう」「高く上げよう」「答えよう」「誉を与えよう」「救いを見せよう」と神からの約束が連ねられている。
 この二つの詩篇を合わせ読む時に、90篇は、私たちの萎えた心を代弁し、91篇は、そんな私たちの心に神の励ましのことばを沁み渡らせるものであるように思えてくる。ともあれ、この詩篇が生まれた背景には、エジプトからの脱出劇があった、つまり神の大きな力強い御手によって、エジプトを離れ、航海を渡り、シナイの荒野へとのがれた奇蹟的な物語があったと考えられている。確かに、5,7,10節は出エジプトの背景を思い出す時によく理解される。しかしこれを捕囚期後に書かれたものとするならば、捕囚からの帰還を第二の出エジプトと見て詠んだとも考えられる。いずれも大いなる神の奇跡的な力を思い起こさせる歴史的な出来事である。
 そこで、私たちも一体、神を信じる者がどのような人生を生きているのかを理解すべきところである。しばしば人は、自分が滑りやすい崖っぷちに立たされていると思うことがある。しかし神は語る。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」と。わたしたちの側に共におられる方は全能者であり、私たちはその陰に宿っている。アブラハムは、99歳で後継者のないことに悩んだ時に、神に「私は全能の神である」と語られた。モーセは、エジプトで奴隷であったイスラエル人を解放するにあたり、自分をエジプトの王パロに遣わす者は「全能の神」であると語った。マリヤもイエスを身ごもることについて、「神にとって不可能なことは一つもありません」と語っている。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」そこには、どんな危機があっても、必ず神の御手による守りがある、その経験を積み重ねる必要がある。私たちが身を避ける神の辞書に不可能ということばはない。
ところで、91篇を詠みながら、気になるのは、「私」「あなた」「わたし」という代名詞が繰り返されることである。構造的には、大きく1-13節、そして14-16節と二つに分かれる。前半の1-13節は、1、2、9節の類似性に注目すれば、ここは、「私」と「あなた」という二者の交唱詞で、後半の14-16節が「わたし」=「神」の宣言文であると考えることができる。実際アラム語訳では、2,9節の「私」、3-13節の「あなた」、14-16節の「わたし」を区別する三部構成の交唱詞として読まれてきたとされる。実際にこれがどのような構成形式で読まれたのかはよくわかっていないが、信仰共同体の共通の確信として、公的な詩として礼拝の中で読まれたのに間違いはないだろう。だから、現代の礼拝にあってこれを皆で交唱するとしたら、2、9節を司会者が、残りの3-13節を会衆が、そして祭司が宣言したと考えられる14-16節を全員で読んでみるのが、元々の読み方に近いのかもしれない。ともあれ、公の礼拝の中で交唱されることが、個人の確信を養うこともある。イエスが荒野の誘惑に際して、12、13節を引用しこの詩篇を引用された、その確信は、礼拝の中で養われたものと言えよう。礼拝の大切さを思う。「彼がわたしを愛しているから、私は彼を助け出そう」全能の神に対する信頼を礼拝の中で、皆で、深めたいところである。
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