パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書12章

2017年06月15日 06時00分45秒 | エゼキエル書
 幻、象徴動作、直接的な言葉によるメッセージという流れで、預言が繰り返されている。先に、両手を縛って地面に横たわったり、乏しい食糧を量ったりして、包囲、捕囚、飢饉などを預言したエゼキエルは、ここにおいて、再び捕囚について預言する。しかしすでに舞台は、捕囚先のバビロニヤであり、これはエルサレムとその残された民について語るものである。
 「彼らの見ている前で、あなたは壁に穴をあけ、そこから出て行け」(5節)。壁は、家の壁のことである。典型的なバビロン風の日干し煉瓦の建物に穴をあけ出て行く難しさを、バビロン軍に包囲された町から逃げ出す困難さに重ねている。それはまさにゼデキヤ王がエルサレムから逃げだそうとして失敗したことに触れている(10節)。「わたしはまた、
彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる」(13節)。彼が失敗したのは、彼の要領の悪さではない。彼の思慮の足りなさでもない。神がなさったことである。
 第二の象徴動作は、「震えながらパンを食べ、おののきながら、こわごわあなたの水を飲め」(18節)という。飲み食いという日常生活をも恐れとおののきの中でしなければならないような事態が来ることを示している。心配と恐怖を演出することが目的であり、それによってエルサレムにもたらされる殺戮と破壊の悲惨さを預言している。
また、ユダとエルサレムの恐れとおののきは、その民の暴虐によって地が荒廃した結果であることを示す(19節)。「やせ衰える」は「地を満たしていたものを失い,荒れ廃れる」(新共同訳)ということで,暴虐によって政治、経済、社会の正常な活動の基盤が崩されてしまうこととを言うのだろう。このような地の荒廃は、レビ26:31-35、申命28:51、29:23の成就で、契約の主のさばきである(20節)。
 21節からは、再び直接言語による預言となる。人々が口にしている2つのことわざが全く根拠のないものであることが示される(21-28節)。
神は、エゼキエルが預言するようなことは起こりえないと語る者たちに、また、預言の真実さを一応受け入れるが、自分たちには当てはまらない、と考える者たちに(27節)。もはや時は延ばされることはない、と語る(22,23節)。
だが、こうした神の言葉に対する安易さは、私たちの態度でもあるのだろう。ペテロも言う。「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」(2ペテロ3:4)しかし、「愛する人たち。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。」(2ペテロ3:9)。
 終末預言が成就するか否かという問題ではない。成就されることは信じていても、それはずっと先の遠い未来のことである、と、その緊急性を受け入れない現実もある。ペテロは、「地上の残された時」をどのように過ごすべきかを語っている(1ペテロ4:2)。万物の終わりの時が近づいている状況の中で、私たちがペテロに勧められているのは、祈りのために、心を整え、身を慎むこと、そして何よりも、互いに熱心に愛し合うことである(1ペテロ4:7,8)。終末の緊急性を語る神のことばの光の中に、今日も歩ませていただこう。




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