パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エゼキエル書17章

2017年06月20日 05時31分33秒 | エゼキエル書
 神はこれをたとえである、とする。つまり歴史的には、ゼデキヤ王のバビロン反逆について預言している箇所である。エゼキエルは、なぞかけをした。二羽の大鷲について語る。
一つはバビロンの王、ネブカデネザルを意味する(3-6節)。彼は、強大な軍事力をもってユダ(レバノン)にやってきて、エルサレムの王朝(杉のこずえ)を支配した。「その若枝の先」(4節)は、18歳で王位に付いたエホヤキン王のことで彼がバビロンへ捕らえ移されたことを言っている。「商業の地、商人の町」(4節)は、バビロンのことである。彼はついで、「その地の種も取って」(5節)つまりエホヤキンのおじゼデキヤを、「肥えた土地」(5節)つまりエルサレムに傀儡政権として立てたのだ(2列王24:10-17)。彼はエルサレムで栄えたが、それはあくまでも「たけの低い、よくはびこるぶどうの木」(6節)つまり、限られた力と影響力しか持たない存在に過ぎなかった。そして、いつでも「鷲の方に向き、鷲の下に根を張る」(6節)、つまりはバビロンに依存する政権であった。
エゼキエルは続いて、もう一つの鷲、エジプトのパロについて語る(7-11節)。先のぶどうの木(ゼデキヤ)は、バビロンの保護のもと、エルサレムで十分に栄えていたに関わらず、この鷲、つまりエジプトの方に根を這わせ、枝を向けていく(7、8節、2列王24:20)。しかしそこには何の実りも期待できない。神が、その根を抜き取り、実を摘み取り、若枝をことごとく枯らしてしまうからである(9節)。バビロンの好意を受けながら、バビロンに忠誠心を見せかけ、実はエジプトと関係を深めようとする不誠実さが、裁かれるのだ。
 11節からエゼキエルは、この謎解きをする。12節は具体的に、BC597年の第二回捕囚の際に(3-4節)、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに攻めてきて、エホヤキン王を初め、国家の指導者や技術者達を捕虜として連れ去ったことを語っている。「王族のひとり」(13節)は、ゼデキヤのことであり、ネブカデネザルによってエルサレムの王とされた(5-6節)。ところが彼は、BC588年夏、バビロンに反抗しようと、エジプトのプサメティコス2世に使者を送り、援助を求めた。エジプトは、これに応じて軍隊を送ったので、バビロンはその年1月に始めていたエルサレムの包囲を一時的に解除する(2列王25:1)。しかし、バビロンの包囲はすぐに再開され、BC587年1月、エルサレムはバビロンの制裁を受け、ついに陥落するのである(17節)。契約を破った不誠実なエルサレムに対する決定的な報いが語られる。大切なのは、これが主のことばである、ことだ。8:1の日付(BC590年)と20:1の日付(それから11ヶ月後)からすれば、このことばは、おそらくBC590年頃に、つまりエルサレムの崩壊前に語られている。謎かけをし、謎を解き明かす神が、予め、自らの計画と意思を語り伝えているというわけである。 
 22節からはもう一つの別のたとえが語られる。二羽の大鷲の出来事の後、つまり捕囚の出来事の後、神は、捕囚の民の中に残れる者を興し、エルサレムに連れ戻すという。エルサレムの滅亡という悲惨な出来事から再びエルサレムを回復する預言である。
「高い杉のこずえ」(22節)は3節の「杉のこずえ」を受け、「若枝の先」は4節の「若枝の先」を受けている。つまり先にはバビロンの王がそれを摘み取り、商業の地に植えたが、ここでは主が「高くてりっぱな山(シオンの山)」に植えられる。するとその杉は本来の姿を回復し、その使命を果すというわけだ(23節)。「あらゆる種類の鳥が住みつき」は、イエスに語られた神の御国の完成の姿をイメージさせる(マタイ13:32)。
バビロンによる征服という絶望的な預言が史実であればこそ、この22節以降の将来に起こる希望の預言も確かなものと受け止めざるを得ない。大切なのは、すべて、私たちの身に起こることが神から出たものであるという信仰である。そうすれば、逆境にあっても動揺せずに、神に低められているその時を思い、神が解き放つ時を待てばよい、ということにもなる。
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