パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇115篇

2016年11月07日 06時09分40秒 | 詩篇
ギリシャ語、シリヤ語、ラテン語などの古代訳では、114篇の続き物とされている。こうした関係性は全くない、とする考えもある。というのも、両者の文書形式は全く別物とされるからだ。他方114篇とつなげて読まれるのは、114篇が出エジプトからの解放と主の御業を称え、その延長上に115篇の主にのみ栄光が着せられるようにという願いと、出エジプトの十の災いが象徴するように異邦人の偶像の虚しさが語られ、主に信頼せよという勧めがあるとするからだ。もちろん別物という立場では、想定されるのは出エジプトの出来事ではなく、捕囚期のそれであり、より一般的に神の普遍の栄光と神に忠実な者への祝福が語られているとする。だが考えようによっては、エレミヤがかつて指摘したように、出エジプトと捕囚期の出来事は連続性があるのであって、古代訳の解釈者たちは、その二つを持って、私たちの救いを想起させる連続性があると考えたのかもしれない(エレミヤ書16:14,15)。エジプトに続き、捕囚の御業を成した主は、歴史に生きる永遠の主である。
だから1節、「栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」神を恐れ、神に栄光を帰すことが、人の生きる姿勢の基本である(伝道者の書12:13)。しかし、人は生まれながらの罪人であり、神を神として認めることができない。自分が神に造られた者であることを謙虚に認めることができず、逆に自分を神の座に上がり込ませてしまうような高慢さを持つ。神の主権を認めていくことが人間としての務めでもある。人間は、主の栄光を宿す、土の器に過ぎない。主のいのちなくしてはただの土くれに過ぎない現実を認めることだ。
そして、語ることも、聞くことも、触ることもできない偶像を作るようなことがあってはいけない。木や石、金属で造られた、魂のない偶像は、いかに神々しく造られようとも神とはなりえない。それらに、私たちの悲しみを感じる心はないし、私たちの祈りを聞き分ける耳の鼓膜もない。私たちの必要のために一緒に出て行く脚力もない。偶像は偶像である。火にくべてしまえばそれはあっという間に燃えてしまう。あるいはハンマーで叩き割れば粉々になってしまう。そして目の前からそれらが消え去れば、私たちはそのことを忘れてしまう、そんな程度のものである。そんなものを拝んではならないし、それらに自分の人生をかけて祈ることがあってもならないのである(4-7節)。
むしろただ、主に信頼せよ(9節)。この方こそ、助けであり盾である。詩人は呼びかける。「イスラエルよ」「アロンの家よ」「主を恐れる者たちよ」イスラエルは、信仰者全般への呼びかけ、アロンの家は、宗教的指導者への呼びかけ、そして、最後に、真に主を恐れる信仰者への呼びかけが繰り返されると理解することができるう。
いずれにせよ、偶像ではなく、「天と地を造られた」(15節)まことに信頼すべき、神を覚えよ!である。天と地を創造し、私たちを存在させた神がおられる。目には見えず、どんな形にも表すことのできない神がおられる。その神にこそ信頼を寄せ、神の力を味わい知らなくてはならない。しかも重要なことは、その主が、「私たちを御心に留められた」(12節)点である。私たちが主を心に留めたのではない。主が私たちを御心に留められたのである。私たちが主を愛したのではない。主が私たちを愛されたのである。主が祝福してくださる。主から私たちに向かう積極的な関わりにこそ、私たちの賛美がある。
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