パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エレミヤ書15章

2017年04月22日 05時05分52秒 | エレミヤ書
エレミヤと神の問答が続く。神はもはや、モーセやサムエルといった偉人がとりなすことがあっても、それを聞くことはないとされる。モーセは律法の代表、サムエルは預言者の代表である。かつて彼らは罪深いイスラエルのためにとりなした者たちである(出エジプト32:11-14、1サムエル7:5-9)。しかしもはや、それはありえない、という神の堅い決意が語られる。それほどに、神の怒りは激しく、神の心は、「おまえに立ち直る機会を与えるのには、もう疲れた。」(6節:リビングバイブル訳)によく言いつくされている。
 イスラエル人の心は、固い石のようで、一貫して神を拒み続けたので、神は、もはや手放す決意をした、という。見捨てられたユダヤ人の運命が語られる。3節には、四つの死。神に見捨てられ、帰るところをもたない者たちは、ただ肉として滅びる以外にはない。8、9節は、戦争の悲惨さの中で、無援の敗北を味わうことが語られる。七人の子を儲けることは、女にとって祝福を意味するが、その女も打ちしおれる。神に見捨てられたら終わりである。しかしそれは、人間の心の頑なさのためである。
 10節からは、エレミヤの個人的な告白になっている。預言者エレミヤとしては、なぜに自分はモーセのように、サムエルのようにとりなしに成功しえないか、という痛みもあったことだろう。とりなしに成功しえぬばかりか、彼はその証言の故に、疎まれ、のろわれ、孤立し、さらには陰謀を企てられているのである。神も「もう疲れた」のかもしれないが、エレミヤも「もう疲れた」のである。エレミヤは人間であって神ではない。神に疲れはない。あくまでもそれは人間にわかることばで神の心を表現したまでに過ぎない。しかし、人間であるエレミヤは本当に疲れ切ってしまった。神の使命のために、真っ直ぐ生きることに疲れ切ってしまった。こんなことだったら生まれなかった方がよかった(10節)、神は私を「欺く者」(18節)だと非難するまでに至っている。パレスチナにおいて雨期だけ水が流れる「当てにならない小川」は、夏の水が欲しい時には何の役にも立たない。まさにあなたはそのように期待はさせるが、あてにならない、というわけである。
 しかし、不満たらたらのエレミヤに対する神の愛と励ましが力強い。11節「必ずわたしはあなたを解き放ってしあわせにする。」エレミヤに敵となった者たちが、とりなしを頼むようになるという。12節。「北からの鉄」は、バビロニヤ軍の攻撃を想定しているのだろう。ユダの軍備ではこれを迎撃することができない。結果、ユダの民は捕囚の恥と悲しみの中に落とされるのである。
また重ねて神は言う。疲れきって、倒れ伏し、そのまま塵となって消え去ることはない。エレミヤは、確かに神の代弁者として立ち続けることができる、という(19節)。諦めて迎合せず、毅然として神の側に立ち続けることだ。「お前が彼らに影響を与えるべきであって、逆に彼らの影響を受けてはならない」(19節)というわけだ。預言者の職務は、神の御言葉を浸透させていくことである。牧師もまた然りである。神は、勝利と守りを約束される。神の力ある業に与るには、信仰と忍耐が必要である。

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