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詩篇129篇

2016年11月20日 05時13分23秒 | 詩篇
主語は、「私」と一人称である。しかしこの詩は公同礼拝用の歌とされているように、ここで述べられている苦しみは、どうやら個人的な経験ではない。それはむしろ「さあ、イスラエルは言え」と、詩人が呼びかけているように、「私」という一人称でイスラエル全体の経験を語っている。つまり述べられているのは、イスラエルの歴史的な出来事と考えてよい。
となれば「耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。」(3節)というのは、具体的にどういう経験なのだろう。恐らく、イスラエルがエジプトで奴隷にされた経験か、アッシリヤやバビロニヤにおいて捕囚された経験を語っているのではないかと推測される。実際、イザヤとほぼ時を同じくした捕囚期前の預言者のミカは、北イスラエルと南ユダの滅亡を預言し、「シオンは、~畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり~」ということばを残している(ミカ3:12)。
私たちの人生には、自分の意思に反して、全く思わぬ人生に巻き込まれていくことがある。人生は、不条理なもので、自由を全く奪われて、何一つ自分が生まれてきた意味を見いだせないこともあろうし、自分にこんな選択の自由が許されていたら、もっと違った人生を歩んだのに、と思うこともあるだろう。イスラエルの民にとって、エジプトの奴隷も、バビロン捕囚も、完全に自分たちの意に反するものであり、さらには、鞭打たれ背中にみみずばれができる労働に駆り出されることは、全くもって、「耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作る」横暴に等しい行為を経験することであった。
けれども、人生が不本意なままに終わることはない。不本意な横暴が許されたままでいることはない。2節「彼らは私に勝てなかった」とされる。要するに、イスラエルは捕囚のまま廃れ、失われてしまうことはなかった、ということである。そして、4節「主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」神は正義である。
後半は、聖書学者によっては、別の経験を語っているとされる。5節、「シオンを憎む者はみな、恥を受けて、退け。」つまり、捕囚から解放された彼らは、別の敵、つまり「シオンを憎む者」に出くわすのである(エズラ4章、ネヘミヤ2:10~)。しかしながら6節、「彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。」このイメージは、イザヤ書にも出てくる。イザヤは全く同じイメージを用いて、アッシリヤの王セナケリブ対する神の裁きを語っている(37:27)。となれば同じ経験と考えても差支えない。むしろイザヤとミカが同時代であるとすれば、その時代背景を反映した詩と考えてよいのだろう。
ともあれ、風によって種が運ばれ、屋根に草が生えることがある。それは、頭上にあるためよく目立つ光景となるが、日が照ってくれば自然に枯れてしまう。だから7節「刈り取る者は、そんなものを、つかみはしない。たばねる者も、かかえはしない。」イスラエルの敵は、岩の上に落ちて育った種と同じく、一時的な成長で終わってしまう、(マルコ4:5)ということだ。8節「通りがかりの人も、「主の祝福があなたがたにあるように。主の名によってあなたがたを祝福します」とは言わない。」ルツ記2:4では、ボアズが刈り入れの人に挨拶を投げかけているが、まさにそのイメージである。
大切なのは、人生には不本意で不条理に思われることは多い。しかし、神はあらゆる敵対経験から私たちを守られる。神は、私たちの歩みをまっすぐにされる。そして、敵対も、それは一時的なことである。むしろ、キリストのように、苦難を進んで受け入れ、キリストの栄光に与ることが、キリスト者らしいことである(イザヤ50:6、53:5)。今日も苦難を苦難ともせず、前進する歩みをさせていただこう。
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