パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇94篇

2016年10月16日 06時57分30秒 | 詩篇
 誰の作であるかはわからない。七十人訳では「週の第四日の、ダビデの讃美歌」と表題づけされているように、ダビデの作と解釈しているが、その真偽性は疑わしい。この詩は、神の正しい支配と裁きを求めるものであるが、ここで想定される敵が誰であるかで意見が分かれている。この敵を、ユダヤ人を迫害する外国人とするならば、捕囚期のものではないかと推測されている。しかし、敵を貧しい者を圧迫する国内の支配階級とする見方もあり、となれば、背教のマナセ王の時代などを反映していると考えられている。いずれにせよ、著者は、世の不正と矛盾に対する正義の神の正しい介入を求めている。
しかし、よくありがちなことであるが、神の正義が見られないように思われる時がある。「復讐するは我にあり」とは神のことばであるが、その復讐がなかなか果たされない、と思うようなことがある。「いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのか」(3節)。横柄で、人を食ったような態度、大口をたたく姿に、これ以上我慢しえないと思うようなことはあるものだ。
 著者は、そのような状況にあって、自らの確信を織り交ぜて、この詩を綴っていく。神の正義が遅れていると思う中で、神が確実に裁くお方であることを覚えながら、自らの祈りを書き記している。
 「気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。耳を植えつけたられた方がお聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。国々を戒める方が、お責めにならないだろうか」(8,9節)。神はこの時を見過ごしているわけではない。ちゃんと見ておられる。著者の確信に揺るぎはない。著者の祈りは、絶望のままに終わることも、空しい希望を告白するだけで終わることもない。「まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。」(14節)。
著者のこうした確信は、実は、個人的な経験に基礎を置くものである。「しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました」(22節)。それがどのような経験であったのかはわからない。しかし、著者には、神の守りの経験がある。それ故に、神が今ある脅威においても、正しいこと、なすべきことをしてくださると信じることができていると言うべきだろう。
 大切なのは、いかにして、試練の時を過ごすかなのだろう。著者は、読者が、神に戒められ、御教えを教えられることを重視している。試練の時においては、まず、主のもとに安らぐことを念頭においている。しかし、私たちの現実は、何とかそのような状況を脱却しようと、心の波立つままにあれこれ動き回ることをよしとするものではないか。苦々しい思いと、焦燥の思いを抱き、悶々と過ごすものではないか。しかし、そのような時にこそ、主の御教えが語るように、全てを主に委ね、主に信頼し、主に守られることをよしとするべきなのである。そのような時にこそ、眠っている間に「悪者のためには穴が掘られる」(13節)との主の語り掛けに信仰を働かせる時なのである。「まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てにならない」アーメンと言いたい。
 心のうちに、思い煩いが増し加わる時にこそ、私たちは、主に委ね、主に信頼する信仰を増し加えなくてはならない。そのためには、まず神の言葉に心を向け、これを深く味わうことである。そうすれば、全地を治められる主の権威を確信し、「主は、わがとりでであり、避け所である。」「主は彼らの不義をその身に返し、彼らを滅ぼされる」(23節)と試練の最中にあって告白できるのである。
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