パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書15章

2017年06月18日 05時18分23秒 | エゼキエル書
15章以降、比喩と直接的なメッセージが幾度か繰り返されることになる。15章は、ぶどうの木のたとえで、率直に言えば、エルサレムを薪にする他のない実りのない、役立たずのぶどうの木にたとえ、その将来を語り、悲しむ内容になっている。
大切なことは、なぜこのようなたとえが出てくるのかである。というのも、大方は、「あなたがたは~と言っている、しかし、それは違う」という形で直接的なメッセージが繰り返されるのと同じように、こうしたたとえも、当時の人々がよく口にしたものを取り上げているからだ。当時のユダヤ人は、自分たちを森の木の中にあるどの木よりも優れたぶどうの木にたとえることがあった。つまり、ぶどうの木は他の木とは違って実を結ぶ価値あるものであって、イスラエルも諸国民の中では特別な民であるという意識を持っていたが、神はそれを否定される。
あなたがたは、自分たちはぶどうの木であると言う。仮にそうだとして、その枝は柔らかく、一般的な木工ばかりか、壁に固定される掛け釘にすら役立たない(3節)。また、燃料用の薪にはなるかもしれないが、イスラエルはたとえるなら、すでに一度火に投げ込まれた燃えさしの枝である。両端が焼け付き、中央部分も焦げ付いてしまった木であって、全く使い物にならない(4節)絶望的なものである、と言う。実際、エルサレムはBC597年、エホヤキンの時代に、侵略されて、敵の火で黒こげにされている(5節)。それは完全な滅亡は免れたものの、もはや、再度火に投げ入れられて(6節)、完全に焼き尽くされる他何の役にも立たないものである(7節)。確かにそれはBC586年の滅亡を待つほかのない国なのである。
ただなぜそうなのか、それは「彼らがわたしに不信に不信を重ねた」(8節)からであるという。実に不信仰の故に神の裁きを免れることができないのであるという。
信仰は漢方のようなものである。信仰を持っても物事が直ぐに変わるわけではないし、その効果はすぐにはわからない。そして人によっては、信仰は幻想だとすら思ってしまう。しかし直ぐに変わるわけではないと思う人も、むなしい幻想であると考える人も、結局は信仰をまだまだよくわかっていない。信仰の利益は、まず何よりも、神にある心の平安である。信仰を持つならば、嵐の中にあっても、平安と静けさを抱いた不動の心を持って人生を歩むことができる。信仰を持つ時に、私たちの喜びや満足は、物や、環境によるものではなく、ただ神とともにあることがわかるようになる。信仰を持っているとは口では言っても、一々物事におたおたするのは、信仰無き事に等しい。信仰を持っても物事は直ぐには変わらない、とか、信仰を持っても自分は救われない、神の恵みを受けることがない、とどこまでも不信に不信を重ねるようでは、信仰の祝福を味わうことはできない。不信に不信を重ねるというのは、神に対して積極的に反抗することだけを言うのではない。消極的に、疑心暗鬼になり、神を疑い続け、不幸せの中に居座り続けることもまたそうである。信仰は私たちの魂を救う。信仰を持てば、物事の見方が変わり、この世のあらゆる不幸に縛られ苦悶する心も解放され、それによって自分を取り巻く周囲も変わっていく。現実の変化はおまけのようなもので、それもまた後から必ず付いてくると考えていくのが信仰的な考えである。神に信頼し神の中に安らぐ信仰を確かなものとしていこう。





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