パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇90篇

2016年10月12日 06時14分52秒 | 詩篇
第4巻に入る。詩篇90篇は、伝統的にモーセの歌とされており、詩篇の中では最も古い。しかし「神の人モーセ」という表題の呼び方自体が後代のものであって、モーセの名を借りた捕囚時代の作と見る者もいる。しかしながら、ここでは、伝統的な立場で、この詩を味わってみることにしよう。
では、モーセのいつの時代に詠まれたのか。一つは、民数記13,14節。約束の地カナンに偵察隊を送り、攻めのぼろうとした際に、イスラエルの民は、信仰によって踏み出すことができなかった。モーセ80歳頃の事である。結局、神の怒りによって、イスラエルの民は、もはや20歳以上の者は、皆この荒野で死体となって滅びることを宣告されるのである。そこでモーセは、「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」(12節)と祈ったという。確かに人は漠然と生きていることがある。一日一日をどのように生きているか、注意せねばならぬところだろう。一日の決断が、行動が結果的には自分の将来を形作っていく。日を正しく数えるというのはそういうことであろう。一日を浪費しないばかりではない、大切に生きて行くというだけでもない、まさに今日、神が召しておられる人生を生き抜くための知恵が必要なのである。
また、この詩篇は、カナン攻略失敗後、荒野で40年間の放浪生活をした最後の数カ月に書かれたとも考えられている。モーセ120歳頃の事である。荒野で、絶えず神の怒りによって多くのイスラエル人が滅びて行った。彼は、40年近い荒野の放浪生活の生き証人であるのみか、不信仰がいかに大きな損失をもたらすかを、40年の歴史を通して学んだのである。荒野では次の新しい世代が育っていたが、その停滞した空気を打ち破るまでには至っていなかった。まさに、神のあわれみなくして、どうしてイスラエルの民は、約束の地を踏めようかという思いがあったはずである。それゆえモーセは祈る。「ちりに帰れ」(3節)と怒られた神の言葉を受けて「帰ってきてください」(13節)と神のあわれみを求めている。モーセは長期に渡る災いの年を体験しながら、主の憐みによって、変えがたい時間の流れが変わっていくことを祈っている。神のことばに従っていれば、2週間で新しいカナンでの生活が始まったところが、イスラエルの民は40年さ迷い歩くことになった。それは不信仰に対する神の裁きであった。結局、人間の愚かさのゆえに、人間が自分の月日を無駄に失っていくのである。なんという虚しさ。そしてこの人間の愚かな頑迷さは変えようがない。けれども、神よ憐れんで、時の流れを変えてくださいというわけである。神を揺るがずに信じる者だけの発想と粘りがここにある。
神の真実さ、神の恵みの確かさをこれから信じようとする者の祈りではない。神の恵をすでに体験している者が、そのありえない神の恵みを再び得させてくださいという祈りである。主の憐みに寄りすがることが私たちにとっての最善であると聞かされている者の祈りではない。実際にその神の計り知れない憐れみを体験しているが故に、40年の遺棄的状況にあっても、次の恵みが必ず来ることを覚えて祈るのである。それは、私たちの人生は良くなると自分に信じ込ませるのとも違う。良くなることがわかっているから、「私たちの手のわざを確かなものにしてください」と祈り、期待を持って待つのである。信仰は味わっていくものである。主の恵み豊かさにこそ、期待していくものであろう。

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