パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇66篇

2016年09月18日 06時39分58秒 | 詩篇
「全地よ。神に向かって喜び叫べ。御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ」この詩篇は礼拝用に作られた。一説に、ヒゼキヤの時代、エルサレムを包囲したアッシリヤの軍隊が主の御使いによって壊滅させられた出来事(2列王19章)を祝って作られた、とされる。大切なのは、彼らが自らの信仰による勝利の経験から、主の偉大な御業を讃える詩篇を作り、それを礼拝に用いたことである。
 読書は、人の頭で物事を考えることだと言われる。私たちの礼拝も、どこか借り物でなされているところがあるのかもしれない。賛美歌にしろ、説教にしろ、借り物、受け売りでなされている。自ら与えられた、祝福された信仰の経験に基づくものではない。それでは、深い感動も、賛美も起こりえない。私たち自らの霊的な経験、御使いの介入、主による大逆転、勝利を賛美にし、共有してこそ礼拝が感動的なものになる。
 3節、神に申し上げよ「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう」「あなたのみわざ」と告白し、そこに何を思うか。教会の歩みの中で共有されてきた、勝利の経験の数々が思い起こされているのか。それとも、何のイメージも湧き上がらず漠然と「あなたにほめ歌を歌います」(4節)と口先で歌っているのか、大きな違いである。
 礼拝は、公同性を持つものであって、心を一つにして行うものである。公の場に、一人集い、儀礼をこなして、こっそり帰ってくるものではない。皆で神の御業を想起する、そこにあった信仰の経験を思い出しながら共有しあっていく、神への恐れ、賛美、祈りにおいて一つになる、そして皆で神の御言葉に応答し、共通の決意と献身に固められていくものである。
「さあ、神のみわざを見よ」(5節)は、会衆への呼びかけである。著者は、神を味わい知った具体的な経験の想起を促していく。「神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る」(6節)出エジプトの歴史を振り返っているのだろう。「神はその権力をもってとこしえに統べ治め」(7節)カナン征服の歴史を振り返っている。その延長に、アッシリヤの軍隊の壊滅もある。それらは、試練ではあったが、「銀を精錬するように、私たちを錬られました」(10節)と告白しうる、神の恵みの時でもあった。その試練があったからこそ、さらに神への理解は増し、信頼は深められ、いよいよ信仰の成熟へと導かれたのである。「火の中、水の中」(12節)を通ればこそ得られた、祝福である。礼拝における神の業の想起は、私たちの魂に対する神の御業の想起へと深められていく。
後半13節からは、主語が「私たち」から「私」へと一人称単数になる。礼拝のしめくくりは、個々の応答にあるからだ。礼拝の終盤にあって、自分自身をささげる意志が固められてこそ、礼拝は完結していく。礼拝を慰めや、感謝、賛美で終わらせてはならない。まして退屈な思いで終わらせてはならない。神の御業を想起し、沈思黙考し、献身の思いを導いていただき、神の者として神に仕える気持ちを強め、自らをささげていくことである。
そして、宣言することである。「さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう」(16節)。礼拝は共同行為でありながら、その結果は互いの刷新へと還元される。神の祝福は、十把一絡げにではなく、個々に向けられているからである。だからいよいよ、大胆に神に近づき、神に大いなることを期待しようではないか。神は、私の祈りの声に耳を傾けてくださる。神は私の祈りを退けることはない。共同体の中にあって、魂に語られる礼拝、神にいよいよ自分の人生をささげていくことを決意させられる礼拝、そんな礼拝を目指して、新しい週の礼拝に向けて整えられていくこととしよう。
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