パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書39章

2017年07月12日 05時23分47秒 | エゼキエル書
39章は、38章の繰り返しであり詳述である。「わたしはあなたを引き回し、あなたを押しやり、北の果てから上らせ、イスラエルの山々に連れてくる。あなたの左手から弓をたたき落とし、右手から矢を落とす。」(2節)これは既に38章でも同様に繰り返された(4節)。神はゴグの軍隊を武装解除し、討ち滅ぼされる。その武装解除に7年(9節)、死体を葬り去るのに7ヶ月(12節)かかったというのは、ゴグの軍隊が非常に強大で圧倒的な力を持っていることを意味している。それは大変な犠牲者を出す戦いであり、これが主の勝利であることを告げている。
しかしながら、38,39章の位置づけについては、実は写本に基づく議論がある。というのも、ある写本は、この38,39章を36章に続け、38,39、37章という終わり方になっているからだ。歴史家のヨセフォスも、このような順で37章が前半のエゼキエルの裁きのメッセージの最後で、後半の回復と希望のメッセージは付け足しであると考えている。
確かにその方が、内容的にも文脈的にも自然な流れと読めるのではないか。しかし、そのような流れで読むことが難しいのは、このゴグに対する戦いにおいて、イスラエルが勝利しているからである。となれば、バビロン捕囚で敗れたイスラエルの歴史的事実には合わないので、また別の戦いが起こる預言として受け止めるべきだ、となるわけである。
そこで、それは回復された後の義しいイスラエルを襲う悪魔的な力に対する勝利と、終末的に読むのがよい、ということになる。現にヨハネは黙示録でこの箇所を引用し(黙示録20:7-10)、世界最終戦争における勝利を語るのであるから、それがキリスト者の読み方になる。けれども、それは、現代のキリスト者にとっては意味のある読み方ではあるが、当時のユダヤ人には意味をなさない。やはりエゼキエルは、当時の時代の人々に向かって語ったのであるから、まずは、当時の時代の人々にとっての意味を探らねばならないだろう。となれば、それは何だろうか。
まず、当時イスラエルはバビロンに滅ぼされ、イスラエルの神は無力である、弱いと見なされた現実を覚えなくてはならない。日本が戦争に負けた時に、天皇がマッカーサーと並んで写真を撮られ、現人神の人間宣言がなされたように、神と崇められたものが全くそうではない、信じるに値しない、とイスラエルの神も諸民族から唾棄された現実があった。そういう恥辱を感じさせられる状況の中で、エゼキエルは、イスラエルの敗戦と捕囚は、神の弱さを示すのではなく、義なる神の裁きであると語る(24節)。だから、義なる神は、同様に、他の国々をも裁くのであり(25-32章)、かつ、自身の裁きの結果を回復することもできるのだ、と(27,28節)。
そして同時に、回復はすぐには起こることではなかった。バビロン捕囚からの回復は歴史的には、70年後であったのだし、そうなると回復させられ、神の前に正しく歩もうとも、結局中々事態は好転しない、中々浮かばれるようにはならないという神の民の心を励ます問題もあったはずだ。つまり、39章は罪に対する裁きというよりも、意味不明の、罪を犯しているわけではない、ゴグによる新たな攻撃、長く続く試練をどう理解するか、というテーマを扱っているのではないか。それは、ヨブ記のテーマにも通じるが、神の次元での戦い、人間にはわからない理由がある試練、あなたの罪には責を帰せられない試練があるのであって、そういう問題に対しても神は必ず勝利をもたらされる、と言おうとしている。今の試練は決してそのままにはならない、必ず勝利はあるのだ、と語っているのだ。となれば、そういう観点から改めて黙示録を読めば、ゴグを引用する黙示録も、ただ終末的な意味でそれを語っているよりも、義の故に苦しむキリスト者に対する慰めと励ましを語っていると理解することができるし、黙示録は、本来はそう読まれたものなのだ、という理解につながるだろう。主は、正しい者の救いであり力なのである。
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