【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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2コリント人への手紙11章

2014年12月14日 06時06分49秒 | パウロ書簡
10章に続いて、パウロは論争的に語っている。問題は、4節、コリントの教会には、キリスト教を自己流に解釈して異なった福音を説いて、しかも自分の解釈の方がパウロのそれよりも優れていると主張している人々がいた。その福音の本質は、キリストの力と栄光を強調するものの、十字架につけられたキリスト、つまり苦難のキリストを説かない福音である。パウロは、コリントの教会の人たちがよくもまあ、そんないい加減な教えを辛抱強く聴いているものだと皮肉っている。そんなことは我慢してはいけないし、むしろおかしいことには気づいて、というわけだ。
6節「たとい、話しは巧みではないにしても」つまり、パウロは、自分がそれらいい加減な福音を語る教師たちよりも、弁舌においては負けるかもしれない、しかし、「知識についてはそうではない」つまり専門的な知識については、十分わかった上で話している。彼らはわかりもしないことをことば巧みに話しているだけなのだ、というわけだ。そしていくつか自分に向けられた批判について答えていく。
コリント教会の人々の中には、なぜパウロが自分たちの援助を受けようとしないのか、そのことに不満を抱いている人々がいた。教師がその労働である教える行為から給与をもらうのは当然ではないか、それなにのなぜパウロは自分たちの支援を受けようとしないのか、という非難。またパウロを攻撃した偽教師たちは、パウロが、本当の使徒ではないからこそ、つまり安物の教えを垂れているからこそ、お金を受けようとしなかったのだ、と批判した。
それに対して、パウロは、8節「私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給与を得た」という。また9節「万事につけあなたがたの重荷にならないようにした」という。つまりパウロがコリントの教会からお金を得ようとしなかったのは、パウロのポリシーによるのである。偽教師たちが言うように、パウロの教えに価値がなかったわけではない。むしろ、敢えてコリントの教会からお金を受けないことを主義主張とした、というわけである。12節。パウロは言う。「私は、今していることも今後も、し続けるつもりです」パウロは、こうして報酬を受けない事に対しての批判について弁明した。
次にパウロは、自分の経歴と宣教努力を誇ってみせる。17節。「これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です」パウロは自分の経歴と宣教努力を誇ることが、実に愚かしいことであるとわかりながらも、あえてそうしている。それは、コリントの教会の人たちに、真の教師が誰であるかを理解させるためである。
だからパウロは、自分が離散ユダヤ人ではあっても、ヘブル語をしっかり話せるヘブル人であり、ギリシャ化されてはいない純粋なイスラエル人で、アブラハムの子孫であることを主張する(22節)。さらに、自分がキリストの苦難のしもべであると主張する(23-27節)。パウロは様々な苦難を数え上げ、それらキリストを語るために受けた苦しみが、キリストの真のしもべの証でなくて何であろうか、というのである。キリストのために苦しむこと、これが偽教師、偽クリスチャンとの違いを明確にするのである。
 さらにパウロには教会への心遣いがあった(28節)。偽教師、偽クリスチャンに教会に対する重荷はない。彼らは教会の人が落胆しようが、喜ぼうが無関心である。彼らには、たましいに対する配慮がない。しかし、真の教師は、弱い者に対しては弱くなり、つまずいている者には心の痛みを覚えるのである。パウロは、父なる神を証人として、告白する。自分の言葉に偽りはない、と。私たちが教会にあって苦しみを覚える時、それは、私たちがその教会を愛しているかどうかを問われている時である。キリストの苦難のしもべであるかどうかを問われている時である。

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