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エゼキエル書29章

2017年07月02日 06時23分41秒 | エゼキエル書
29章から32章までは、イスラエルが神の代わりに頼みとしたエジプトに対する預言である。エジプトはもはや、これまでの勢力を維持することはない、弱小国になると預言されている。歴史を支配し、これを導く、神ご自身の明確な意志が示されている。
第10年の第10の月の12日、エルサレムの包囲が始まった1年後のBC587年1月のことである。先に27章では、ツロが船にたとえられていたが、ここ29章では、エジプトがワニにたとえられている。ヘブル語ではタンニーン、口語訳では、「龍」と訳されているが、それは、パロを、神に敵対する古代オリエントの神話的怪獣に重ねる意図からなのだろう。実際パロは、「川は私のもの。私がこれを造った」(3節)と誇り、神に敵対し、自分を神とする高慢さそのものに陥っていた。神はその罪を裁かれるのである。パロは自分をナイルの神としたが、ナイルに住み着き、他の小魚と一緒に漁師に釣りあげられるただの被造物に過ぎない、というわけである(4節)。
3-7節は詩文形式で、エジプトに対する神の審判がたとえで語られるが、続く8-16節でそのたとえが散文形式で解説される。「ミグドルからセベネ、クシュ」(10節)というのは、エジプトの南北両端にある町を代表し、つまりエジプト全土を意味する慣用表現である。「40年」(11節)は、ネブカデネザルのエジプト征服からペルシャ勃興までの40年間を意味する。エジプトも、イスラエルと同じように捕囚の運命にあい、散らされ、荒らされ、再び回復させられるのであるが、もはや、昔日の勢いを取り戻し列強の一つになることはない(14、15節)。そうされるのは神である。エジプトの盛衰を見ながら、イスラエルは神、主の存在を悟ることになる。彼らは頼りとしたエジプトが全く頼りにならないこと、この時代の流れを握っておられる主ご自身の存在を思い知るようになる(16節)。
第二の預言は、17節から「第27年の第1の月の1日」つまり、BC571年1月に語られた。七つの預言の中では最も新しいもので、時間順に記録されていないところである。
ここでは、ネブカデネザルのツロ攻撃の後の標的がエジプトであると語られる。しかも、ツロ攻撃は、攻略までに約13年の歳月がかかった苦戦であった。そのため、皆の頭も肩も、甲冑ですりむけてしまうほどであった、とは、神もまたユーモラスである。古代の戦争では、兵士たちへの賃金はごくわずかで、彼らは、敵から略奪したものをもって自分の報奨としていた。しかし、ツロ攻略にはあまりにも長い年月がかかったばかりか、ツロの人々は国からその財宝をすべて持ち逃げしていたので、「彼にも彼の軍隊にも、ツロ攻撃に働いた報いは何もなかった。」(18節)という。全く割に合わない戦争であった。そこで神は、エジプトをツロの代わりにバビロニヤ軍の報奨とする、と言う(19節)。
ただし、歴史的事実は、ツロを滅ぼしたのは、BC332年、ギリシャのアレクサンドロス大王である。ネブカデネザルはツロを破壊したが、滅亡させてはいない。史実は違うとしても、大筋は預言のとおりである。
21節、「その日」は、イスラエルがバビロン捕囚から解放される時を指す。「一つの角を生えさせ」は象徴的な言い方で、その日、イスラエルが神の素晴らしい恵みを受けることを語る。つまりイスラエルを解放し、祝福するのは、エジプトではない。神ご自身である。パロは、自らを神としたが、そうではなかった。イスラエルの目には、バビロンの脅威から救い出す、確かな権威と映ったが、そうではなかった。頼るべきお方はただおひとり、目に見えない、まことの力ある神ご自身である。その神を認めていくことだ。ただ、大切なのは、神が認めさせてくださることを知ることである。信仰は私たちの行為でありながらも、神に与えられる行為でもある。神が憐れみを示される時に、私たちはその権威のもとにひれ伏し、これに従うことができるようになるのである。