【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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イザヤ書55章

2017年03月27日 06時00分41秒 | 出エジプト記
 イザヤは、呼びかける。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。」水、穀物、ブドウ酒、乳は、すべて霊的な罪の赦しと祝福の象徴として語られている。それらは皆ただで与えられる。というのも、主のしもべであるキリストがそれらの代価をすでに支払ったからである(53:5、12)。
人は、真に自分を満たさないもののために、お金を費やすものだろう。お金を稼いでは、様々な遊興、レジャーや嗜好品に費やすが、それは決して人を満たすことはない。一層飽くなき欲求の悪循環に陥るのみである。発想を変えてみよう。人間の根本的な欲求は、神によって、しかも無代価で与えられる、とイザヤは言う。神の前に出て、聞く(3節)、ただその一つの行為、つまり神とよき時を過ごすことによって、人の魂はこよなく満たされる、という。確かに、イエスも語った。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37,38)人の心を真に満たすものは、キリストのいのちであり、永遠の命を約束するみことばである(ヨハネ5:24)。
イザヤは悔い改めを呼びかける(7節)。悔い改めは悪を前提としている。私はそんな悪を指摘されるような人間ではない、だからこんな呼びかけは関係がない、と思うかもしれない。しかし、考えてみよう。私たちの当たり前が当たり前ではないのだ。遊興と嗜好に耽るだけの生き方に何の正しさと善があるだろうか。私たちがこの世に生み出された目的は、ただ自分を楽しませるだけではないはずだ。人は互いに手を取り合い、支え合って生きていかなくてはならない。
人間は神がこれを造られた目的を理解し、その目的に沿って生きるべきものである。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる」(8節)と語る神と、その思いを知るためによき時を過ごすことが、人間にとって決定的なことである。また、天はどれほど高いのか、と言われれば、それは測定不可能である。神の思いも測定不可能であり、知り得ぬことを心得つつ、神に従うことが大切である。
 今の自分の人生が、いばらやおどろで満ちている、と思われることがあるかもしれない。そうであるとしたら、そのような人生は、もみの木とミルトスに満ち溢れる人生と変えられる、と言う。ミルトスはてんにん科の植物であり、何かよいことめでたいとこがあると装飾に用いられるので、「祝いの木」とも言われる。だからおどろの代わりにミルトスが、というのは、死とのろいに代わっていのちと緑の祝福がということだ。神を認め、神を呼び求め、神の思いと道に生きる人の人生はそのようになる、という。神は気休めに物事を語られることはない。神に信頼してもよい所以である。
ここで語られていることは、もはやバビロン捕囚からの解放の恵みという歴史的出来事を超えている。それは、明らかに罪の赦しとキリストにある神との和解の恵みを語る。広く時代を超えて今の私たちに直接適用できる、神の祝福への招きがある。