【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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イザヤ書46章

2017年03月18日 05時38分09秒 | イザヤ書
マルチンルターは、自分の力や知恵、また敬虔さ富、名声、権力その他何にでもそのようなものに拠り頼む者は、偶像崇拝の罪を犯している、と語ったという。偶像崇拝は、単に木や石を彫って形作られた偶像を拝むだけのことではない。自分を神として、自分の名声や富みに拠り頼むことも、また真の神を認めない偶像崇拝なのである。
 1節、「ベル」は、バビロンの主神マルドゥクのヘブル名である。もともとシュメール人の風と嵐の主神エンリルのことで、その別称である。ダニエルたちが礼拝するのを拒んだ神であり、「ネボ」はその息子と考えられている。その偶像が、「かがみ、ひざまずく」とは、バビロンの崩壊を意味する。それらが戦利品として征服者によって持ち運ばれていく。しかし、実際は単なる厄介なお荷物であるという皮肉がある。一方イスラエルの神は、征服されて、倒されて、獣の背中に乗せられて引かれていく神ではなく、むしろ、イスラエルの民を「胎内にいる時からにない、生まれる前から運び、そして白髪頭になってもなおも、運ぶ」(4節)神である。偶像の神とまことの神の対比が明らかである。真実の神は人間を創造したお方である。これを死に至るまで世話し、守られ、導かれる神である。しかし偶像の神は、人間が造り、人間が運ばなければならないもの。「これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない」(7節)。「このことを思い出し、しっかりせよ」(8節)、つまり理性を働かせてよく考えよ、という。信仰者はクールなのである。
「遠い大昔のことを思い出せ」(9節)という。具体的にアブラハムの選びと出エジプトのことが想定される。神はもう一度新しい選びと新しいエジプトを起こそうとされている。遠い大昔の事を思い出しながら、神が今も同じように新しい業を成そうとしておられることを覚えてそこに期待を寄せよ、というわけである。やはり求められるのは信仰だ。
 神は、「終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ~すぐそれを行い、すぐそれをする」「わたしの救いは遅れることがない」という(13節)。不信仰によって不毛な時を過ごすよりも、信仰による忍耐と前進の時を過ごすように考えることだ。
神はお一人である。木や石でできたもの、金や銀で飾り立てた神に人を救う力はない。さらに自分の富や権力も脆いもので、永遠の保証になるわけでもない。大切なのは、目に見えない真の神がいることを信頼することだ。その神の救いは「遅れることがない」のである。しかし、それが遅れているように感じることもしばしばである。だが、そう思える時も、神の主権を覚えて、神の定められた時を待ち、神に服従することが最善である。神が働かれるとしたら、それは神の意思によるもので、私たちは神を自分の思い通りに動かすことはできない。神のみこころをなしてくださいと、神の前に遜るのみである。ただ、空しく遜るわけではない。なぜなら神は私たちを胎内にいる時からにない、生まれる前から運び、しらがになっても背負う、私たちを愛する神だからである。神は私たちを愛している。神の愛に信頼しよう。