夏天故事

日々感じること、考えることを書き連ねていきます。

とりあえず

2009-07-31 23:33:31 | Weblog
忘れないように、記事だけ引用。

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fourseasons/180132.html
北海道新聞(7月31日)
卓上四季
アイヌモシリ(7月31日)
明治政府の目が東アジアに向かうのは、維新から間もない1870年代だった。朝鮮への侵略を図る征韓論が台頭し、最初の海外派兵とされる台湾出兵が行われた▼日中両国に従っていた琉球王国(沖縄)が、日本の単独支配になるのもこのころだ。「琉球処分」である。明治政府の威圧により、最後の琉球王・尚泰が首里城を明け渡す。現地では不服従運動も続いた▼琉球王国が、外務省管轄の「琉球藩」になるのと同じ年、北海道に「地所規則」「土地売買規則」がつくられた。アイヌ民族が狩りや漁をし、木の実や枝を得ていた土地の多くが国家のものになる。和人の移住者などに払い下げられてゆく▼入植は急増した。アイヌ民族独自の文化は否定され、日本化が求められた。こうした流れから、〈北海道「開拓」は(明治政府の)東アジア侵略の第一段階となった〉。北大名誉教授の井上勝生さんは、著書「幕末・維新」(岩波新書)で指摘する▼アイヌ民族への総合政策を示す有識者懇の報告書が出た。「同化政策でアイヌの文化は深刻な打撃を受けた」「圧倒的多数の移住者の中で被支配的な立場に追い込まれ」-ここにも書かれている▼アイヌモシリ(人間の大地)を奪った歴史は重い。文化復興に国の責任を認め、生活支援を求める報告書は当然として、それで十分か。「移住者」の流れをくむ者には、考える責任があろう。

ほっだいテレビがエライなが?

2009-07-25 21:03:47 | Weblog
先日のことである。
夕方6時台にある地方の報道番組において、衆議院選挙に立候補予定者を扱うシリーズ特集があった。
その日は、自民、共産、社民(民主の支援を受けている)、幸福実現の4党が出馬を予定している選挙区だった。
自民の候補予定者は、全国でも有名で何期も衆議院議員をした人で、今の自民にあって、比較的まともと目されている人だ。以下j氏とする。
社民の候補が民主の支援を受けているのは、この県の社民と民主が選挙協力をするということで、この選挙区では社民の候補が、県内の他の選挙区では民主の候補が立候補を予定している。以下s氏とする。
共産の予定者はk氏、幸福実現の予定者はh氏とする。
さて問題はこれらの立候補に割いた時間である。
j氏に関しては、だらだらと県知事戦の様子から何まで、非常に長い時間を割いていた*のに対し、k氏に関しては、街頭演説をしているシーンと簡単なプロフィールだけ。s氏に関しては、j氏ほどではないがそれなりに時間が割かれていた。h氏に関しては大体k氏と同じような時間配分であったように感じた。

オレは『立候補予定者の顔ぶれ』と銘打ったコーナーで、時間配分に差があることに疑問を抱いたので、電話して時間配分に差がある根拠を聞いてみた。

まず出てきた答えは、「確かに時間配分に差をつけた」とのこと。
それからその根拠としては「編集権」だそうだ。
特に今は告示前だし、告示後であっても候補者の時間配分に差を付けることは「編集権」として認められている、とのこと。
放送法と矛盾しないかと聞いたところ矛盾はしないそうだ。
さらにこの放送局では「編集」する基準として実績や状況の流れを参考にして時間配分をしたそうだ。

実績や状況の流れを基準にするなら、j氏やs氏に多くの時間が割かれるのは当たり前だろう。特に現職であるj氏などはこの選挙区において、ただ一人の実績を保有する立候補予定者で、他3名は皆新人なのだから衆議院における実績などありはしない**。しかもこのj氏は全国的にもかなり有名な議員で『立候補予定者の顔ぶれ』を紹介するコーナーならば、この立候補予定者が一番短時間でいいはずである。
s氏に関しても、二大政党制やら政権選択選挙などのキャッチフレーズに踊らされている状況では、民主の推薦を受けているs氏が自動的に時間が長くなってしまう。
この選挙区ではこの二人に焦点が当てられて選挙報道がなされるのは目に見えている。
ならばなぜ『立候補予定者の顔ぶれ』を紹介する企画などをしなければならないのだ?この企画でj氏とs氏に多くの時間を割く意味が全くわからない。あのような時間配分でk氏とh氏の顔ぶれがどれだけ広まったというのだ?
この企画をしたものは、この基準にもっと批判的であるべきではなかったのか?
そもそも二大政党制やら政権選択選挙などのキャッチフレーズに踊らされている今のような状況下において、埋没しそうな少数意見を発掘してきたり、拾い上げて紹介したりするのが報道の仕事ではないのか?
それを「編集権」を盾に放棄するようでは報道とは言えないだろう。広告塔と名前をかえてはいかがか。

…まあ、言いたいことは山ほどあるけれど、一つ確かなことは「今の報道(特にテレビ)はバイアスがかかっている=偏っている」ということを自ら認めている、ということだろう。
もちろん全く偏っていない報道などアリはしないのだが、なるべく偏らないようにしようと努力するのがジャーナリズムではないのか?

テレビを見る側も、「私たちは偏っていますよ」といっている連中の言うことを鵜呑みにしてはいけないということがよくわかったやり取りだった。

*実際に時間を計ったわけではないが、体感としてはこのコーナーの半分以上の時間をとっていたように感じた。
**とはいっても実績という言葉も非常にあいまいで、j氏およびs氏に関しては衆議院以外の活動も含め実績として扱っていたのに対し、k氏およびh氏に関してはまるで実積がないような扱いであった。どの候補予定者もそれぞれの立場でいろいろ活動してきたから立候補しようとしてるんだろうに…

なんだかなぁ

2009-07-22 01:55:27 | Weblog
政権選択選挙だの、政権交代選挙だの…
多くの場合、選挙(特に衆議院選挙)であれば政権交代の可能性はいつだってあるし、選挙ってそもそも政権を選択するためにあるんじゃないの?
さも「今回は特別」だとでも言いたそうに、自公民およびマスコミが政権選択選挙、政権交代選挙連呼してますが、普通は選挙の度に政権交代はあり得るものだし、有権者は投票によって政権を選択しているのだ。その結果、たまたま自民が長い間、政権に居れただけのことである。だから「今回の争点は政権交代です。」なんていう議員や政治評論家がいたら、そいつは議会制民主主義を理解してないし、議員とは何かすらわかっていない。「今回の争点は政権交代です。」なんていうマスコミがあったら、ジャーナリズムを名乗る資格はないだろう。
政権交代は争点にはなり得ない。通常は、ある(複数の)争点で争った結果によって政権交代がおこるからだ。
だから「今回の争点は政権交代です。」というのは日本語として成り立っていない、意味のない言葉なのだ。

今日一日こんな基本的なこともわかっていない言葉がテレビの中で飛び交っていて、且つ、意味有り気に捉えられているような雰囲気があり、非常にうんざりさせられた。


もともと風なんか吹いてなかった

2009-07-17 00:17:23 | Weblog
追い風だったというのなら、テレビで、新聞で、ラジオで、どの程度共産が取り扱われていたか、数字を出して欲しい。
民主や自民と同程度には取り扱われていたんだろうな。
オレが見ていた限りでは一度も共産の名前は出てこなかったが。
共産に追い風が吹いていたのに戦術が悪くて議席を減らしただの、政権交代を主張して民主の批判をして足を引っ張るだの、はては自公の補完勢力だのいう人たちには、きっと毎日のように共産の名を、民主や自民が取り扱われるのと同程度、テレビで見る事ができたんだろう。

選挙の度に思うのだが、財界およびマスコミは当然のこととして、なぜ普段自公の批判をしているブロガーたちの多くはこうも民主に甘く、共産に辛いのだろうか。
民主は幾度となく国政、地方問わず有権者の期待を裏切ってきたではないか。その実績を見ずしてどういう投票行動をとろうというのだ?
都議会では石原都知事を助けてきたのは自公に加え民主ではなかったのか?
自公と民主一体どこがどう違うというのか。
「よりマシ」だから民主に投票する?
「一番マシ」に投票すべきではないのか?
「一番マシ」が勝てそうにないから「よりマシ」な民主を選ぶという人は共産を批判できないだろう。
「一番マシ」をとおす努力を最初からあきらめているのだから。
都知事選の時もそうだったが、どうも共産に対して自分のことは棚にあげる、上から目線的な批判が多いように感じる。

そしてそういった批判をする人たちは、共産が自民および民主と公共の電波の上で、同じ土俵の上にたたされていないという現実を無視する。
「政権交代」の主張で忙しい人たちは、90年代前半の「政権交代」で何があったか、という現実を見ようとはしない。
その裏で「よりマシ」な選択が「現実的な」判断だと考え、共産支持者にその「現実的な」判断を迫る。時には「自公の補完勢力だ」などという言葉までをも使って。
これはダブルスタンダードというものではないのか?

結局、日本に議会制民主主義が根付くのはまだまだ先のことなんだろうなぁ…とつくづく考えた。

おくらなかった手紙

2009-07-15 01:18:47 | Weblog
부치지 않은 편지
(작사:정호승 작곡:백창우)
풀잎은 쓰러져도 하늘을 보고
꽃피기는 쉬워도 아릅답긴 어려워라.
시대의 새벽길 홀로 걷다가
사랑과 죽음이 자유를 만나
언강 바람 속으로 무덤도 없이
세찬 눈보라 속으로 노래도 없이
꽃잎처럼 흘러 흘러 그대 잘가라.
그대 눈물 이제 곧 강물되리니
그대 사랑 이제 곧 노래되리니
산을 입에 물고 나는 눈물의 작은 새여
뒤돌아 보지 말고 그대 잘가라



青い葉は倒れても 空を見
花が咲くのはたやすいが 美しくあるのは難しい
時代の夜明けの道を一人で歩いていたら
愛と死が自由と出会う
川辺の風に墓もなく
風の強い吹雪の中に歌もない
花びらのように流れ流れて君よ元気で
君の涙はもう、すぐ河の水になるだろう
君の愛はもう、すぐ歌になるだろう
山を口にくわえて飛ぶ涙の小さな鳥よ
振り返らずに君よ元気で



夜明けが一番暗いと言う。
今はまさに時代の夜明けなのだろう。
そういう風にでも考えないと今回の都知事選の結果はやってられない。

日本ってなんですか

2009-07-06 21:49:56 | Weblog
いわゆる日本とは一体何を指すのか、よくわからない今日この頃。
東北は、しばしば日本であることを否定されることがある。
東北人本人も気づいてないことも多いけれど、例えば歴史的な方言の扱いなどをとって見ても、東北語は日本語の外に置かれる(つまりは否定される)ことが多かった。
今、東北の若い世代で、自分の地域の方言で会話できる奴は、果たしてどれだけいるのだろう。
一人称を“うち”なんていっているのをきくと空恐ろしくなる。
自分らで自分らを外側に追いやって、本人は中心にいるつもり、というねじれた現象が東北で起きている。(そうせざるを得なかった理由があるのだが、それはまた別の機会に。)
東北でこれだから、沖縄文化やアイヌ文化は日本文化の外に置かれているのはまず間違いない。

だが、いわゆる保守の人たちがいう“日本”の枠組みはできてせいぜい150年程度しか経っていないごく最近のものだ。その前、つまり江戸時代(前近代)までの日本は明治維新(近代)以降の“日本”とは別物だ。そのことは、なぜ戊辰戦争がおこり得たかを考えれば、また、琉球王国の立ち位置や、琉球処分の経過を見れば明らかであろう。
だから廃藩置県とは、単にそれまであった藩を県に置き換えた、というものではなく、前近代的な緩やかな集合体を、近代的な枠組みに押し込め、統合したものという意味があるのである。
なのに多くの“日本人”は“日本”や国というものを固定的に考える。本来それらはかなり流動的なものなのに、だ。近代の大日本帝国も今の日本国もそんな流動性の中で成立した一国家に過ぎないのに。
そして国家自体流動的なものなのだから、その国の国旗、国歌も当然流動的なものになる。
だから日本国民にとって天皇や君が代、日の丸は絶対的なものではないのだ。
特にしばしば(日本史の授業の中ではほとんど全ての時間で)日本の外に置かれる東北、沖縄、北海道(アイヌ)の人たちにとっては。

だからこんな記事を見ると、日本人はなぜこうも国家(特に戦争に負けて否定されたはずの大日本帝国)に関わるものを絶対視したがるのか、同じ日本人ながら不思議で仕方ないし理解に苦しむ。
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-090701X728.html
「国旗・国歌、嫌いなら辞めよ」=起立しない教員に-上田埼玉知事
2009年7月1日(水)20:03
 上田清司埼玉県知事は1日の県議会本会議で、県立学校の式典で君が代斉唱時に起立しない教員がいることについて「式典のルールに従って模範を示さなければならない教員が模範にならないようでは、どうにもならない」と述べた。その上で「そもそも、日本の国旗や国歌が嫌いだというような教員は辞めるしかないのではないか。そんなに嫌だったら辞めたらいい」と強調した。

 君が代斉唱時に起立しない教員がいることへの解決法を民主党県議からただされ、答えた。これに対し、共産党県議団は「思想と良心の自由を定めた憲法19条の規定をないがしろにするもので、700万県民の代表にふさわしくない危険な発言だ」とし、撤回を求める談話を団長名で発表した。