A Diary

本と音楽についてのメモ

B.S.ジョンソンを朗読する

2007-03-02 14:31:15 | イギリスの小説
■B.S.ジョンソン『老人ホーム――一夜のコメディ』(青木純子訳、東京創元社2000)
〔B.S.Johnson House Mother Normal (1971)〕

かつてまだ中学生の頃、この年頃にはありがちだけれども、僕は部屋にあったラジオを一生懸命聴くようになり、なかでもNHKFMの熱心な愛聴者になった。NHKFMということはすなわち、クラシック音楽を主に聴いていたということだが、これとは別に、毎晩夜11時前に放送される連続ラジオドラマ「青春アドベンチャー」も楽しみにしていた。あと、週末に放送されるラジオドラマ「FMシアター」もよく聴いていた(両方とも現在でも放送されている番組)。当時からテレビではあまりドラマを観なかったが、ラジオのドラマは別で、受験だとか何やらの理由で自ら聴取を禁じるまでは、かなり定期的に聴いていたと思う。

耳で物語を聞くという作業は、テレビや映画を観るよりも、本を読むという行為に近いところがある。つまり、想像力が刺激される点だ。登場人物の容姿や、ストーリーに登場する舞台背景は、限られた言葉や音から、読者、あるいは聴取者が自らイメージをふくらませていく楽しみがある。ただこれは、視覚的な伝達がない分、ストーリーを理解するのが大変という意味でもある。テレビや映画はヴィジュアル表現にかなり助けられているので、どういうストーリーなのか理解が容易だ。本やラジオドラマは読者、あるいはリスナーへの負担が大きく、逆にテレビや映画は、誰にとっても安易に楽しめる。人間は情報の多くを聴覚よりも視覚から取り込んでいることもあり、この点が、テレビが普及した最大の要因なのかもしれない。

中学生や高校生の頃が過ぎると、NHKFMのラジオドラマとはすっかり疎遠になってしまった。最近はぜんぜん聴いていない。ただし、先日BBCのRadio4で「ジキルとハイド」のラジオドラマを聴いた。というか、インターネットラジオをつけっぱなしにして、別のことをしながら聴いていた。当然英語だし、よくわからないところも多々あるのだが、元の話を知っているので、まあ普通に楽しめた。「ジキルとハイド」は週末の特別番組だったが、Radio4には超有名な連続ラジオドラマ「The Archers」(みんなあのテーマ音楽を知っている)を筆頭に、こんな具合で、しょっちゅうラジオドラマをやっている。本や詩の朗読の番組も多い。もちろんRadio4が「Intelligent speech」のチャンネルで、音楽は基本的に流さないせいでもあるが、それにしても、イギリスにおける「ストーリーを耳で楽しむ」文化の度合いは、日本より圧倒的に高い。

例えば、いわゆる「オーディオブック」というものを考えてみると、日本では、夏目漱石や芥川龍之介といった広く親しまれている古典作家のオーディオ版(CDやカセットテープ)というのは、きっとどこかにはあるのだろうけど、僕は見かけたことがない。でも、ディケンズやオースティンのオーディオ版というのは、イギリスでは大きな本屋さんだと普通に売っている。試しにアマゾンのUK版で検索みれば、こういう古典作家の作品だと、ほとんどがCD版も入手できることがわかる。

テレビがない時代だったら、人間の声だけで物語を楽しむ文化は当たり前だったのだろう。イギリスの19世紀の小説を読んでいると、夜のくつろぎのひととき、家族の誰かが本を朗読している場面がよく登場する。そしてこんな朗読を楽しむ文化は、きっと以前の日本にもあったはずだ。『平家物語』は琵琶法師の弾き語りだったのだから。ただ、テレビや映画が普及する時代になり、どういう理由かはわからないが、日本ではラジオドラマとか朗読とかがそれほど一般的でないのに対し、イギリスではこの「聴いて楽しむ」文化が今でも根強く定着している。

* * * * *

ということで、B.S.ジョンソンの『老人ホーム』を僕がみなさんのために、朗読して差し上げましょう!…と意気込み、がんばってみたところで、この企画はきっと失敗するに違いない。普段の会話及びカラオケを考慮すると、僕の音声表現力には確かに限界があると思われるので、なんだったら有名な声優さんを起用してもいい。でも、きっとうまくいかないだろう。『老人ホーム』という作品は、もちろん言葉がつづられているから、これを声に出して読むという点では朗読は可能だ。僕でもできる。でも、この非常にユニークな作品の、ユニークたらしめている部分を、音声だけで伝えるのは、かなり困難、というか、無理だと思う。

この困難の原因は、B.S.ジョンソンが『老人ホーム』では言葉だけではなくて、視覚にも訴える書き方をしているせいだ。つまり、声だけでは伝えられない部分がある点に、この本が朗読では表現できない理由がある。ページを開けばわかるが、一般的な小説だと文字がぎっしり並んでいるところを、『老人ホーム』では一見詩のような、不思議な改行のなされた配置になっている。太文字は実際に登場人物が声に出した言葉、平常の書体は頭の中の思考を表している。そして、読み進むにつれて、ページに印刷された文字数はどんどん少なくなっていく。つまり、これは登場人物の思考が減少していくことを意味している。最終的には、思考の停止を表す白紙のページまでもが現れてしまう。

さらに興味深いのは、この本には各章に一人ずつ、八人の老人と一人の寮母が登場するのだが、それぞれに割り振れらた各章のページが三十ページで揃えられていて、さらに、その三十ページが時間的に重なり合うようにできあがっているところ。つまり、例えばセーラという老人の十ページ目は、他の全ての登場人物についての各章の十ページ目と時間的に一致している。こういう構成なので、最初は意味不明な部分であっても、最後の登場人物の章まで読み進めれば、内容がかなり理解できるようになっている。

確かに朗読できないことはあるまい…でも、白紙のページが続く部分は、どうしたらいいのか。僕はずっと黙っていればいいのだろうか。あと、思考が散漫になり、印刷された文字が、ページ中を飛び散っているような箇所は、どのように音声で表現したらよいのか。それに、ページをめくるというのは、本を読むときだけの作業だ。音読するときは「ページをめくります」なんていちいち言わない。でも、『老人ホーム』は、そのとき何ページ目を読んでいるのか、これを意識することが楽しむために必須となってくる。「誰それの何ページ目を読んでいます」という具合に、本文に書かれた言葉以外のことまで説明しなくてはいけないわけだが、果たしてそういう「注」の施された朗読を楽しめるのかどうか、はなはだ疑わしい。

『老人ホーム』は、このようにかなり独創的な作品だ。印刷された文字がルールどおりに配列されていて、それを順番に読み進んでいけばOKというような、一般的な小説とはかなり異なる。印刷された文字はルールどおりには配列されていないので、まずその配列の意味から考えていかなくてはならない。そして、この本の最後には、登場人物自らが、小説のルールを踏み外す行為に出る:


      さて、この辺で、わたしもそろそろ
決まり事の枠組みから外れることにいたしましょうか。各人三十ページに
割り振られた世界から。もうおわかりかと思いますが、わたしもまた
作者の操り人形というか、でっち上げの存在で(常に背後にちらつく作者の影に
気づいていらしたでしょ? あら、読者のみなさんをだまそうなんて
不可能ですもの!)、 (p298)


こんなふうに「作者」がいて、「でっちあげ」であることを認めてしまう。できるだけ本当にあったことのような、リアリティーを旨とする従来の一般的な小説と比べて、『老人ホーム』がいかに無謀な企てであるか。でも、こういう無謀さこそB.S.ジョンソンの真骨頂なので、たとえ朗読ができないからといって、価値がない小説なのだと切り捨ててしまうのは、ちょっとどうなのだろう。ジョンソンが自ら影響を認めているロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』にだって、ひっきりなしに作者は登場し、明らかに朗読不可能と思われるページが多数あるが(真っ黒に黒塗りされたページをどう発音するのだろう)、その価値は十分認められているのだから。

* * * * *

実は、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』には、なんと、オーディオCDが存在する。もちろん、要約版ではあるのだけれど(Naxos AudioBooksシリーズより発売)。だったら、B.S.ジョンソンの諸作品だって、朗読版が可能ではないだろうか…。どんなものだって音声表現にしてしまう、イギリスの朗読文化をあなどってはいけない。

※Naxos AudioBooksのウェブサイト:http://www.naxosaudiobooks.com/


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