以前「ラーメントッピング」の記事で由緒ある禅寺の門前の戒壇石に記される「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)あるいは「禁葷酒」(葷酒を禁ず)という言葉を引用しましたので今日はそのお話です。
そのまま訳すと葷や酒は寺の中には入れてはいかん、という事なのですが、この「葷」こそ、精進料理で使ってはいけない野菜の事なのです。
この葷の文字はにんにくとその近縁植物のことを意味します。
五葷とも、五辛(ごしん)とも呼ばれる5種類の食べてはならない野菜。実はこの5種類の組み合わせは国・時代・宗教・思想 によって異なりますが、大まかに言うと「蒜(にんにく)」「葱(ねぎ)」「玉葱」「薤(らっきょう) 」「韮(にら)」の5つでしょう(ねぎの仲間ですね)。
その他に「野蒜(のびる)」や「山椒」、「生姜」が含まれる場合もありますが、現在の僧堂ではあまり問題にされないようです。
精進料理の「精進」は一般的な意味の「精進」ではなく、語源となった本来の仏教用語「六波羅蜜」の一つを指します。他の五つは「布施、持戒、忍辱、静慮(禅定)、智慧(般若)」ですが波羅蜜は梵語で言う「Paramita」で「渡す」という意味です。此岸(この世)から彼岸(寂滅、涅槃:悟りの世界)に渡るために行わなければならない行動でその内の一つ「精進」は「仏道修行に励むこと」という意味に捉えられます。つまり精進料理とは仏道修行に励む為の料理という事です。
たとえば宗教的なベジタリアンの中にはその教義によって「根野菜」を避けたりする場合があります。このような事も含めて単なる「素食」や「野菜料理」と一緒くたにしないようにしましょう。
それでは何故、これらの5種類の野菜は食してはいけないのでしょうか?
そもそも一体仏教の僧侶はいつから菜食主義者になったんでしょう?お酒は?
たとえば私の好きなにんにくが、人類の食用として使われるようになった歴史は古く、紀元前3000年の頃にはすでにエジプトで栽培されていました。古代エジプトで巨大なピラミッドを建設するのに大量のにんにくと玉ねぎが消費されていたという話は有名です。その労力を支えるスタミナ源となったのです。
この事からも容易に推察できますが、にんにくは精力剤でもあり、古代中国でも熱病(すなわち風邪)を追いはらうのに五辛(五葷)が使われていました。
しかし五葷は精力がつきすぎて性欲を刺激し、人間の心を乱し、魂を失わせるという風にも言われておりました(ここらへんは道教の影響ですかね?)。
また孔子には一三の「不食」があり、さらに「野菜をたくさん食べるべき」、「粗末な飯や野菜も、祭の時には敬虔な態度でいただいた」という文句の影響も無視できないと思われます。
日本でも「古事記」(712年)に記されており、平安初期の書「延喜式」(927年)には栽培法も出ているそうですが、中国から伝来した仏教を聖徳太子が国教として定めて以来、にんにくを避ける思想は一般庶民の間にも次第に浸透し、スタミナ源として優れた力を秘めているにもかかわらず、つい近年まで僧侶だけでなく一般人まで、にんにくを用いる事は少なかったようです。
仏門でも特に律宗、禅宗などでは、求道心を絶対のものとして重んじ、一切の煩悩・欲望を捨て去るという考えで、性欲を刺激する酒とにんにくは不要かつ不浄のものとして必要以上に、まるで親の敵を扱うが如く徹底して避けてきました。何とも惜しい事をし続けたものです。また、これら五葷は極めて臭気が強く、修行の妨げになるからというのも一因のようです(一般人はもしかしてこちらの理由が大きいのかもしれません)。
我が宗祖道元和尚は「正法眼蔵・洗面」の巻の後半で
天下の出家在家、ともにその口氣はなはだくさし。二三尺をへだててものをいふとき、口臭きたる。かぐものたへがたし。有道の尊宿と稱じ、人天の導師と號するともがらも、漱口刮舌嚼楊枝の法、ありとだにもしらず。
と書いてます。私なりに勝手に解釈すると
「中国の人々は僧侶も一般人も、総じてお口の息がとても臭い。2、3尺離れてものを言っても、その口臭がにおってくるので、嗅ぐ者は我慢が出来ない。仏道に通じた偉い僧侶も、人天界に生きる者を導く大導師だと号する連中も、歯磨きをすることを知らない。」
と言ったニュアンスでしょうか。いつも昔流れてた「ポリデント」のCMの台詞、「おじいちゃん、お口臭ーい」を思い出します。子供って残酷ですよね。因みに私は妹に「親父臭い(仕草ではなく加齢臭の意で)」と言われた時は泣きそうになりました。
けどわざわざ中国まで行って学んできた人がここまであしざまに言うなんて・・・まるで子供?いやいやそんな恐れ多い事は言いません。余程衝撃的だったんでしょうね。
また日本でにんにくと呼ぶようになったのは、仏教の「忍辱」(一般的には辱めを忍ぶの意)が語源らしく、「源氏物語」中の帚木(ははきぎ)の巻にも光源氏が久しぶりに女性を訪ねた時、その女性が蚊帳ごしに話をするばかりで顔を出さず「日頃、風病重きに耐えかねて、熱き薬草を服して、いとくさきによりなむ。対面 給わらむ。」と語っているくだりがあります。
ここで言う熱き薬草というのは乾燥したにんにくを煎じたものを指していると思われ、中国同様、風邪薬としてもよく知られていたことを示しています。効能はあるものの口にすると(臭うので)辱めを忍ばなければならない、という訳です。
因みに青森県弘前市の鬼神社では昔からにんにくの産地で「にんにく祭り」が催されてたそうです(四月に青森に行った時にはじめて知りました)。神前ににんにくを供え、門前の市で無病息災を祈ってにんにくを買い求めるという行事です。買ったにんにくは、戸口につるし、悪魔や病魔から家族の身を守る(「吸血鬼」と似てますね)という事ですが、こういった風習が、すでに江戸時代から続いています。
以上の事から嫌われつつも用法を違えなければ重宝されていたもので諸刃の剣みたいな扱いだった訳です。仏門で避けられていた由縁も妻帯を是と考えれば問題ない訳です(妻帯云々の問題はここでは考えません)。では肉食に関してはどうなんでしょう?
私が知り得る限り出家者の戒律の中には元来肉を食べてはいけないというものはありません(もしかしたらあるのでしょうか?あったらすみません)。しかし中国大乗仏教の中には肉食に反対する条文があります。漢族の僧侶は大乗仏教を信奉しており、多くは肉を食べないのです。その習慣は、梁の武帝が肉食の間違いについて議論し、肉食をやめる命令を出して以来普遍化したのだそうです。
そこで気になるのは大乗仏教に比べて、厳しいといわれる南方仏教の僧侶の方はどうなんでしょう?六年前の話になりますがかつて元・南方仏教の僧侶だったという方(何処の国か忘れましたが徴兵制みたいに一度出家して数年間僧侶となるのが義務づけられているとか)に話を聞くと高僧といわれる人達が肉食をしていたと言っておりました。
びっくりしました。というかその方は還俗したとはいえ、私の目の前でおいしそうにケンタッキーを食べてました。その後も我々より余程優雅な暮らしぶりを教えていただきました。その話もここでは関係ないので伏せておきます。
ではいよいよお酒の話に。隠語でいう般若湯です。確かに仏教では不飲酒(ふおんじゅ)戒と言い酒を飲んではならないという戒があります。しかし飲酒については、飲酒そのものは悪ではなく、酒を飲むと気が大きくなって他の戒を守りにくくなるから不飲酒戒が制定されたのだ、という意見もあります。とすれば、酒は飲んでも、酒に飲まれなければいい、ともいえそうです。
またはインドのような暑い国では、酒を飲まずにいることはそれほど苦痛ではありませんが、日本は寒い国です。まして暖房器具のなかった時代には冬には身体をあたためる酒がほしくなります。その意味では、日本人にとって酒は必要悪ともいえます。
因みに高野山を開いた弘法大師空海は、少量の酒を弟子に許しています。
また昔は、寺が酒を造って売っていたという記録も残ってます。勿論隠れてでしょうが。神仏習合していた寺では、神社が祀られていることが多く神様に供えるために造ったという事です(言い訳?)。「お神酒あがらぬ神はない」ってやつですかね。
確かに酒は元々原始宗教における宗教的(呪術)儀礼に使用されており、現在でいうならば「麻薬」に近いとよく聞きます。古代の酒は生成技術も低く、現在程上等な品質ではありませんでした。ある程度民間的に広がった時も不純物も多く、とても悪酔いしたものと考えられます。
これらの事を踏まえると現代にあって一概に飲むなとは言えません。グレーゾーンな訳でしかもあくまでも「戒め」であり「律」ではないですし・・・場が和むお酒と言うのもあります、各人の責任の範囲内で嗜まれるぶんにはよろしいのではないかと。酒税も払ってますしね。迷惑を掛けないお酒なら良い、きっとそうですよ!あえて結論もグレーにしておきます。関係ないですが「酔えば酔うほど強くなる」という酔拳で有名な嵩山少林寺でも「不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)」とあるそうです。(まー実際に飲酒して戦う拳法ではないですけど)
喫煙についても同様です。あえていうなら東南アジアのお坊さんは酒は飲まないかわりにタバコはヘビースモーカーが多いそうです。仏教成立後、ずっとあとになっての風習だから教義的には何も言っていません。後は世俗のルールに違反しなければ問題ないですね。最近は肩身が狭いからなあ・・・因みに私は酒は一人で飲む事はほとんどありませんがタバコは吸ってます。いずれもイメージを考えれば控えたほうが良さそうですね。咥えタバコの坊さんなんてガラ悪すぎますから。
ここまでかなり都合のいい事を並べているな、と思う方も多いでしょう。しかし世の中更に上手がいます。
「不許葷酒入山門」 これを実にうまく読み下してしまう人が昔からいます。
「葷は、許さず。酒は山門に入る」
「許さざれども葷酒、山門より入る」
「許さずとも、葷酒山門に入れ」
などと酒だけを助けてみたり、本当はダメだけど葷や酒がお寺の中に入っていくよとか堂々と認めたりしています。最後など命令口調で開き直りの感があります。つまり、こんな解釈をするほど五葷や酒は魅力的なのです。
またこの語をもじって酒好きの家の門に「不許悪客(下戸理屈)入庵門」と書かれていた事もあるとか。理屈の方は解りますが・・・下戸も悪客というのは言いすぎですよね。
私の説明で納得できない方もおられましょう。そんな方は目くじらたてずに広い心で僧侶のかわいらしい抵抗を察してください。普段気づかないけれどもそれだけありがたいのです。隣の芝生が青くみえるというレベルの問題ではありません。
最後までお付き合いいただいた方々にナマグサの傑僧、山頭火の自戒の言葉を捧げます。
酒は味ふべきものだ、うまい酒を飲むべきだ。
一、焼酎(火酒類)は飲まないこと
一、冷酒は呷(あお)らないこと
一、適量として三合以上飲まないこと
一、落ちついてしづかに、温めた淳良酒を小さい酒盃で飲むこと
一、微酔で止めて泥酔を避けること
一、気持ちの良い酒であること、おのづから酔ふ酒であること
一、後に残るやうな酒を飲まないこと
そのまま訳すと葷や酒は寺の中には入れてはいかん、という事なのですが、この「葷」こそ、精進料理で使ってはいけない野菜の事なのです。
この葷の文字はにんにくとその近縁植物のことを意味します。
五葷とも、五辛(ごしん)とも呼ばれる5種類の食べてはならない野菜。実はこの5種類の組み合わせは国・時代・宗教・思想 によって異なりますが、大まかに言うと「蒜(にんにく)」「葱(ねぎ)」「玉葱」「薤(らっきょう) 」「韮(にら)」の5つでしょう(ねぎの仲間ですね)。
その他に「野蒜(のびる)」や「山椒」、「生姜」が含まれる場合もありますが、現在の僧堂ではあまり問題にされないようです。
精進料理の「精進」は一般的な意味の「精進」ではなく、語源となった本来の仏教用語「六波羅蜜」の一つを指します。他の五つは「布施、持戒、忍辱、静慮(禅定)、智慧(般若)」ですが波羅蜜は梵語で言う「Paramita」で「渡す」という意味です。此岸(この世)から彼岸(寂滅、涅槃:悟りの世界)に渡るために行わなければならない行動でその内の一つ「精進」は「仏道修行に励むこと」という意味に捉えられます。つまり精進料理とは仏道修行に励む為の料理という事です。
たとえば宗教的なベジタリアンの中にはその教義によって「根野菜」を避けたりする場合があります。このような事も含めて単なる「素食」や「野菜料理」と一緒くたにしないようにしましょう。
それでは何故、これらの5種類の野菜は食してはいけないのでしょうか?
そもそも一体仏教の僧侶はいつから菜食主義者になったんでしょう?お酒は?
たとえば私の好きなにんにくが、人類の食用として使われるようになった歴史は古く、紀元前3000年の頃にはすでにエジプトで栽培されていました。古代エジプトで巨大なピラミッドを建設するのに大量のにんにくと玉ねぎが消費されていたという話は有名です。その労力を支えるスタミナ源となったのです。
この事からも容易に推察できますが、にんにくは精力剤でもあり、古代中国でも熱病(すなわち風邪)を追いはらうのに五辛(五葷)が使われていました。
しかし五葷は精力がつきすぎて性欲を刺激し、人間の心を乱し、魂を失わせるという風にも言われておりました(ここらへんは道教の影響ですかね?)。
また孔子には一三の「不食」があり、さらに「野菜をたくさん食べるべき」、「粗末な飯や野菜も、祭の時には敬虔な態度でいただいた」という文句の影響も無視できないと思われます。
日本でも「古事記」(712年)に記されており、平安初期の書「延喜式」(927年)には栽培法も出ているそうですが、中国から伝来した仏教を聖徳太子が国教として定めて以来、にんにくを避ける思想は一般庶民の間にも次第に浸透し、スタミナ源として優れた力を秘めているにもかかわらず、つい近年まで僧侶だけでなく一般人まで、にんにくを用いる事は少なかったようです。
仏門でも特に律宗、禅宗などでは、求道心を絶対のものとして重んじ、一切の煩悩・欲望を捨て去るという考えで、性欲を刺激する酒とにんにくは不要かつ不浄のものとして必要以上に、まるで親の敵を扱うが如く徹底して避けてきました。何とも惜しい事をし続けたものです。また、これら五葷は極めて臭気が強く、修行の妨げになるからというのも一因のようです(一般人はもしかしてこちらの理由が大きいのかもしれません)。
我が宗祖道元和尚は「正法眼蔵・洗面」の巻の後半で
天下の出家在家、ともにその口氣はなはだくさし。二三尺をへだててものをいふとき、口臭きたる。かぐものたへがたし。有道の尊宿と稱じ、人天の導師と號するともがらも、漱口刮舌嚼楊枝の法、ありとだにもしらず。
と書いてます。私なりに勝手に解釈すると
「中国の人々は僧侶も一般人も、総じてお口の息がとても臭い。2、3尺離れてものを言っても、その口臭がにおってくるので、嗅ぐ者は我慢が出来ない。仏道に通じた偉い僧侶も、人天界に生きる者を導く大導師だと号する連中も、歯磨きをすることを知らない。」
と言ったニュアンスでしょうか。いつも昔流れてた「ポリデント」のCMの台詞、「おじいちゃん、お口臭ーい」を思い出します。子供って残酷ですよね。因みに私は妹に「親父臭い(仕草ではなく加齢臭の意で)」と言われた時は泣きそうになりました。
けどわざわざ中国まで行って学んできた人がここまであしざまに言うなんて・・・まるで子供?いやいやそんな恐れ多い事は言いません。余程衝撃的だったんでしょうね。
また日本でにんにくと呼ぶようになったのは、仏教の「忍辱」(一般的には辱めを忍ぶの意)が語源らしく、「源氏物語」中の帚木(ははきぎ)の巻にも光源氏が久しぶりに女性を訪ねた時、その女性が蚊帳ごしに話をするばかりで顔を出さず「日頃、風病重きに耐えかねて、熱き薬草を服して、いとくさきによりなむ。対面 給わらむ。」と語っているくだりがあります。
ここで言う熱き薬草というのは乾燥したにんにくを煎じたものを指していると思われ、中国同様、風邪薬としてもよく知られていたことを示しています。効能はあるものの口にすると(臭うので)辱めを忍ばなければならない、という訳です。
因みに青森県弘前市の鬼神社では昔からにんにくの産地で「にんにく祭り」が催されてたそうです(四月に青森に行った時にはじめて知りました)。神前ににんにくを供え、門前の市で無病息災を祈ってにんにくを買い求めるという行事です。買ったにんにくは、戸口につるし、悪魔や病魔から家族の身を守る(「吸血鬼」と似てますね)という事ですが、こういった風習が、すでに江戸時代から続いています。
以上の事から嫌われつつも用法を違えなければ重宝されていたもので諸刃の剣みたいな扱いだった訳です。仏門で避けられていた由縁も妻帯を是と考えれば問題ない訳です(妻帯云々の問題はここでは考えません)。では肉食に関してはどうなんでしょう?
私が知り得る限り出家者の戒律の中には元来肉を食べてはいけないというものはありません(もしかしたらあるのでしょうか?あったらすみません)。しかし中国大乗仏教の中には肉食に反対する条文があります。漢族の僧侶は大乗仏教を信奉しており、多くは肉を食べないのです。その習慣は、梁の武帝が肉食の間違いについて議論し、肉食をやめる命令を出して以来普遍化したのだそうです。
そこで気になるのは大乗仏教に比べて、厳しいといわれる南方仏教の僧侶の方はどうなんでしょう?六年前の話になりますがかつて元・南方仏教の僧侶だったという方(何処の国か忘れましたが徴兵制みたいに一度出家して数年間僧侶となるのが義務づけられているとか)に話を聞くと高僧といわれる人達が肉食をしていたと言っておりました。
びっくりしました。というかその方は還俗したとはいえ、私の目の前でおいしそうにケンタッキーを食べてました。その後も我々より余程優雅な暮らしぶりを教えていただきました。その話もここでは関係ないので伏せておきます。
ではいよいよお酒の話に。隠語でいう般若湯です。確かに仏教では不飲酒(ふおんじゅ)戒と言い酒を飲んではならないという戒があります。しかし飲酒については、飲酒そのものは悪ではなく、酒を飲むと気が大きくなって他の戒を守りにくくなるから不飲酒戒が制定されたのだ、という意見もあります。とすれば、酒は飲んでも、酒に飲まれなければいい、ともいえそうです。
またはインドのような暑い国では、酒を飲まずにいることはそれほど苦痛ではありませんが、日本は寒い国です。まして暖房器具のなかった時代には冬には身体をあたためる酒がほしくなります。その意味では、日本人にとって酒は必要悪ともいえます。
因みに高野山を開いた弘法大師空海は、少量の酒を弟子に許しています。
また昔は、寺が酒を造って売っていたという記録も残ってます。勿論隠れてでしょうが。神仏習合していた寺では、神社が祀られていることが多く神様に供えるために造ったという事です(言い訳?)。「お神酒あがらぬ神はない」ってやつですかね。
確かに酒は元々原始宗教における宗教的(呪術)儀礼に使用されており、現在でいうならば「麻薬」に近いとよく聞きます。古代の酒は生成技術も低く、現在程上等な品質ではありませんでした。ある程度民間的に広がった時も不純物も多く、とても悪酔いしたものと考えられます。
これらの事を踏まえると現代にあって一概に飲むなとは言えません。グレーゾーンな訳でしかもあくまでも「戒め」であり「律」ではないですし・・・場が和むお酒と言うのもあります、各人の責任の範囲内で嗜まれるぶんにはよろしいのではないかと。酒税も払ってますしね。迷惑を掛けないお酒なら良い、きっとそうですよ!あえて結論もグレーにしておきます。関係ないですが「酔えば酔うほど強くなる」という酔拳で有名な嵩山少林寺でも「不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)」とあるそうです。(まー実際に飲酒して戦う拳法ではないですけど)
喫煙についても同様です。あえていうなら東南アジアのお坊さんは酒は飲まないかわりにタバコはヘビースモーカーが多いそうです。仏教成立後、ずっとあとになっての風習だから教義的には何も言っていません。後は世俗のルールに違反しなければ問題ないですね。最近は肩身が狭いからなあ・・・因みに私は酒は一人で飲む事はほとんどありませんがタバコは吸ってます。いずれもイメージを考えれば控えたほうが良さそうですね。咥えタバコの坊さんなんてガラ悪すぎますから。
ここまでかなり都合のいい事を並べているな、と思う方も多いでしょう。しかし世の中更に上手がいます。
「不許葷酒入山門」 これを実にうまく読み下してしまう人が昔からいます。
「葷は、許さず。酒は山門に入る」
「許さざれども葷酒、山門より入る」
「許さずとも、葷酒山門に入れ」
などと酒だけを助けてみたり、本当はダメだけど葷や酒がお寺の中に入っていくよとか堂々と認めたりしています。最後など命令口調で開き直りの感があります。つまり、こんな解釈をするほど五葷や酒は魅力的なのです。
またこの語をもじって酒好きの家の門に「不許悪客(下戸理屈)入庵門」と書かれていた事もあるとか。理屈の方は解りますが・・・下戸も悪客というのは言いすぎですよね。
私の説明で納得できない方もおられましょう。そんな方は目くじらたてずに広い心で僧侶のかわいらしい抵抗を察してください。普段気づかないけれどもそれだけありがたいのです。隣の芝生が青くみえるというレベルの問題ではありません。
最後までお付き合いいただいた方々にナマグサの傑僧、山頭火の自戒の言葉を捧げます。
酒は味ふべきものだ、うまい酒を飲むべきだ。
一、焼酎(火酒類)は飲まないこと
一、冷酒は呷(あお)らないこと
一、適量として三合以上飲まないこと
一、落ちついてしづかに、温めた淳良酒を小さい酒盃で飲むこと
一、微酔で止めて泥酔を避けること
一、気持ちの良い酒であること、おのづから酔ふ酒であること
一、後に残るやうな酒を飲まないこと











>あれはダメこれもダメと言われてできない人は我見が強いのでしょうね。
確かにその通りかもしれません。いや勿論世の中には例外の方もいるでしょうが少なくとも私自身そういう所がありますね。耳が痛いです。しかし15年ですか。それだけ経つと食べたい食べたくない以前に胃がうけつけなくなるのでしょうね。私も身を摂するように心がけます。
こういう片句が石に彫られて其処に在るのは、「いいもんだな」といった思いが自然と湧いて出て来るのですが。
門が在り、ヒトが其処を入る。出る。
入るに際して、なにかを手放す。
出るに際して、なにかを手放す。
空いたこころに緑風が吹いていく。
「いいな」と。
言われて始めて気づきましたが本当そうですね。それに気づかず、文言のみに捕われていた私・・・
是非今後もコメントいただければ幸いです。またよろしくお願いします。
市内のお寺を訪問した際見つけた見慣れぬ石塔。
読む事すら出来ず難儀しておりましたら知人から文字の解読を知らされました。
ネットで調べていましたらこちらのサイトが飛び込んでまいりました。
楽しく読ませていただきました。
本当に目からウロコ状態になっております。
「クンクン匂う」の「葷:クン」なのなかなぁ〜などと勝手な想像を巡らしております。
拙ブログエントリーはこちら↓
http://www.asplan.jp/modules/wordpress/index.php?p=1132
煩悩の毎日、道元さまの本も読み解く力のがございませんが一応、曹洞宗の檀家でございます。
(相田みつをが大好きです。)
大変読み応えのあるブログ、ありがとうございました。
はじめてまして。
私は何分勉強嫌いの上浅学の身ですが、いろいろと参考にしていただけば幸いです。今後とも是非よろしくお願いいたします。