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憲法の変え方②

2006-09-07 13:01:16 | Weblog
自民党総裁選出馬にあたっての安倍晋三氏のキャッチフレーズ「美しい国、日本」と比べると、麻生太郎氏のキャッチフレーズ「豊かさと安心を実感できる国」の方が、毒気は少ない。その麻生氏も現行憲法については「日本人が作った日本人の憲法が必要だ」と主張している。

このコラムの筆者は、現行の日本国憲法は全体としてよくできた憲法だと考えている。敗戦直後の日本人に憲法制定作業を任ねていたら、これだけ優れた憲法はできなかった(国会図書館の資料『日本国憲法の誕生』参照)。

現行憲法に瑕疵があるとすれば、それは、条文ではなく、憲法の構成にある。日本国憲法は、前文で主権在民、戦争放棄などの基本的考え方をうたっている。それに続いて第1章「天皇」が置かれている。日本と同じ立憲君主国オランダの憲法は、第1章を「基本権」にさき、国王については第2章「政府」の中の第1節で述べている。同じ立憲君主国のスペインでも、憲法の第1章は「基本権」であり、国王については第2章で規定されている。これらの西欧の立憲君主国の憲法は、君主に関わる事柄よりも国民の基本権についての記述を優先している。アジアの代表的な立憲君主国タイ国の憲法は、第1章で国王は元首であるが、主権は国民にある、などの国の基本原則をのべ、続く第2章で「国王」、第3章で「国民の権利と義務」に触れている。

日本国憲法の構成は、西欧の立憲君主国の手法より、アジアの立憲君主国のそれに近い。さらに、日本国憲法の構成は、大日本帝国憲法の構成に酷似している。大日本帝国憲法は第1章「天皇」、第2章「臣民権利義務」だった。

「日本人が作った日本人の憲法」という自主憲法制定の主張には情緒面で訴求力がある。したがって、危うさもある。「第2次大戦後に独立した国々の多くが、当初は、旧宗主国にならった憲法を制定したが、やがて、多かれ少なかれ一党的・独裁的な体制に移行した。それは自由主義と議会制を支えるに足るだけの経済が発展・成熟していなかったということによって説明されるが、同時に、個人を基盤とする社会観と異なる文化的風土によるものであった」(平凡社世界大百科事典「憲法」)。筆者はインドネシアを中心に東南アジア地域の政治風土をここ10数年観察しているが、1950年代のインドネシアの立憲民主主義の崩壊など、この説明がうまくあてはまると感じる。

自民党は自前の憲法制定作業を進めている。その議論の内容をちょっとだけ、ここでのぞいてみよう。憲法調査会憲法改正プロジェクトチーム第9回会合(2004年3月11日)の危うい議論を自民党ホームページから拾い出してみると

●いまの日本国憲法を見ておりますと、あまりにも個人が優先しすぎで、公というものがないがしろになってきている。個人優先、家族を無視する、そして地域社会とか国家というものを考えないような日本人になってきたことを非常に憂えている。夫婦別姓が出てくるような日本になったということは大変情けないことで、家族が基本、家族を大切にして、家庭と家族を守っていくことが、この国を安泰に導いていくもとなんだということを、しっかりと憲法でも位置づけてもらわなければならない(衆議院議員・森岡正宏)。

●現行憲法は、日本人の魂を否定するための憲法であったわけで、憲法を読んでいて1番感じることは、生きた憲法でない、無味乾燥、バーチャル憲法だと(衆議院議員・西川京子)。

●わが国の場合、最も大切なことは、記紀の時代から律令の時代、武家政治の時代、そして明治時代、マッカーサーの占領下においても、皇室が精神的な支柱になり、国民のシンボルとしてずっと国を支えてきたから、この国がある。そういう意味では皇室に関する規定が常に第1条であるべきだ。現行憲法第第1章以上にもっとしっかりと皇室の大切さを書いて、最後に憲法尊重義務をきちんと規定しておけば、絶対に将来ともほかの問題で我々が説得に困るということはないと思う(衆議院議員・大前繁雄)。

●この日本国憲法は、アメリカによって徹底的に神道を排除するという理屈でつくられた憲法。日本では情操教育の段階でいろいろ神道というものを使って情操教育がされていたにもかかわらず、それが取り払われたので、個人の自由とか個人の権利ばかりが主張されて、責任、義務がうまく整理できなくなってきている。それを呼び戻すには、神道を戻すのか、あるいはそれにふさわしいような日本固有の宗教みたいなものをもう1度考え直す必要があるのではないか(衆議院議員・奥野信亮)。

●戦後、日本民族弱体化政策、バラバラにして、2度と一致結束して立ち上がることがないようなことを主眼に置いた憲法の影響結果がいま表れているのではないか(衆議院議員・佐藤錬衆)。

この議事録には「欧米の社会は基本的に自立した個というのがはじめにあって、それが集合体で社会ができ、国ができ、あるいは契約も含めてそういうふうに成り立っている。それに比べて日本は、はじめにぼんやりと国があり、社会があり、そのなかで点線で囲まれた個人があるような気がする」(衆議院議員・鈴木淳司)という、なかなかうがった日本人論も開陳されていた。もしそうだとすれば、「個人を基盤とする社会観と異なる文化的風土による憲法変更」は意外に容易な作業になるかもしれない。

(2006.9.7 花崎)

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