詩はここにある(櫻井洋司の観劇日記)

日々、観た舞台の感想。ときにはエッセイなども。

イングリッシュ・ナショナル・バレエ団『海賊』 2017年7月17日 東京文化会館

2017-07-17 16:59:51 | 日記
アリーナ・コジョカルのメドゥーラをお目当でチケットを買ったのに、なんと妊娠で降板。代役はサンフランシスコ・バレエ団のプリンシパルであるマリア・コチェトコワ。女性の役では2番目に良い役である ギュルナーラを怪我から回復したという加瀬栞が急遽演じる事になり故国に錦を飾った格好。

とかく『海賊』というと第2幕のパ・ド・トロワだけが有名。ガラ公演ではメドゥーラとアリのパ・ド・ドゥになるが、今回はもちろんオリジナルのコンラッドも加わった三人で踊る版。

今日のアリは14日の公演終了後に最高位であるプリンシパルに任命されたセザール・コラレス。元々音楽の長さが決まっているので、跳躍や回転を入れるにしても限界がある。大概は技と技の間に余白となるような部分をつくって体力を温存するものだが、コラレスは全てを全力疾走。まだ20歳だというから怖いもの無しなのかもしれない。

人間技の限界まで挑んだアリのヴァリエーションだったけれど感心はしても感動はなかった。むしろあまりの技のメガ盛りぶりに笑うしかなかった。これではバレエではなく見世物の類である。

感動したのは、その直後に踊られたメドゥーラとコンラッドの踊り。そこには超絶技巧のリフトなどもあるけれど、二人の間に感じたのは「愛」。なぜメドゥーラを高く掲げたくなるのか?愛の喜びを跳躍で表現したくなるのか?全ての答えが二人のバレエの中にあった。見事だった。人間離れした超絶技巧も良いけれど、見慣れてしまえば、もっと高く、もっと早くと欲張りになってしまうのが観客である。もっと深く「愛」を掘り下げる方向がバレエにとっては好ましいのだ。

「ああ、楽しかった」という感想だけだとしたら劇場を出たら忘れてしまうだろう。人間が愛し合うとはどういう事かをバレエは目に見える形にしている。手を取り合い、視線を交わし、愛の高まりをバレリーナを空中に差し上げたり、自分が高く跳んだりと美しい音楽に合わせて表現しているのだ。そこにはバレエの逆説がある。高く跳ぼうと思えば重心を低くした方が高く跳んだように見える。自分の力だけではなく、床を蹴ってその反動を使うのだ。それが分かっているダンサーは鬼に金棒。なんでも表現できる。それができないと目先の技に囚われて、中身が空っぽのバレエしかできない。

今日はメドゥーラのフェッテで手拍子が起こった。片足で何回転もする高度な技。バレエは観客が手拍子で応援するような見世物ではない。オーケストラの演奏に合っていない手拍子は、むしろ邪魔している。何故彼女はダブルを入れて駒のように回転し続けるのか考えよう。「愛」による止むに止まれない感情の高ぶりを自らが回転することにより表現しているのだ。そのためには身体の中心をギュッと締めている。極限まで締めているからこそ、力が湧いてくるし心の動きが観客に伝えられる。

高く高く跳ぼうとする若いコラレスとコンラッドを踊ったオシエル・グネオとの違いは、若さと馬力に任せて自分の力だけで跳ぼうとして、身体の中心が締まらずに軽くなってしまうコラレス。逆に身体を締めて意識を下に向けて力を入れる事によって、かえって世界が広げるというバレエの逆説を体現しているのがグネオという事なのだろうと思った。

そして第3幕。幻想の中で繰り広げられる女性陣によるバレエは、美しくたおやかな世界で、これこそが求めていたものだと確信。バレエは力強さよりも、やはり軽さがあるからこそ上へ上へと意識が広がって劇場中に幸福感が溢れるのだと思った。

どうせ超絶技巧で驚かせるだけのバレエと思っていたが、イングリッシュ・ナショナル・バレエ団の『海賊』は全く違う世界を味あわせてくれた事に感謝したい。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 映画『残像』 アンジェイ・... | トップ | 追悼 日野原重明先生 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。