詩はここにある(櫻井洋司の観劇日記)

日々、観た舞台の感想。ときにはエッセイなども。

ばらの騎士 新国立劇場 2015年5月24日

2017-12-01 20:47:16 | 日記
今回は満足を味わった新国立劇場の『ばらの騎士』。2年前は酷評してましたq


2007年は「ばらの騎士」の当たり年で、11月にはファビオ・ルイージが指揮するドレスデン国立歌劇場来日公演、9月にはフランツ・ウェルザー=メストが指揮するチューリッヒ歌劇場来日公演、6月に初演された今回のプロダクションはに感激した記憶があって期待して初日の公演にでかけたのだが、結果は無残な上演に終わった。直前になってからの歌手の降板や、さすがに初演時のような演出家の厳しい目が無いからといって緩みっぱなしの芝居、よせばいいのにレパートリー公演を気取ったのか『椿姫』との交互上演など、足を引っ張る要素が多すぎたのか、まさかの不発に終わった。口の悪い友人は「新国の初日は衣裳付きのゲネプロ」などと憎まれ口をきくが、あながち間違いでもないような低水準。細かなミスの連続で、なんとか最後までたどり着いたという感じの酷さだった。

第1幕で演出の最大の見せ場は幕切れに元帥夫人がタバコをふかしながら、雨がつたう窓を物憂げに見つめるという独を浮き彫りにさせる芝居の部分だが、段取りに終わってしまって何も伝わってこなくて不発。さらに肝心な音楽も煮え切らないもので大いに退屈を感じた。特にオーケストラを完全にコントロールできていない指揮者のボンクラぶりには呆れた。

第2幕では男声陣が頑張っていたのだが、ここでも指揮者の腰の引けたような音楽のせいで華麗なる音の饗宴といったきらびやかなイメージがなくて、とっても地味。急な代役で気の毒なのだがゾフィー役のアンケ・ブリーゲルは未熟さばかりが目立った。

第3幕は最大の聴かせどころの三重唱で、各人の想いがまったく歌からは伝わってこなくて、どんなプロダクションでも涙ぐんでしまうはずなのに、目からは全く涙が流れなかった。観客ほどには指揮者には思い入れのない舞台なのだろうけれど、もっともっと舞台に共感して音楽を作ってくれなければ困る。

とかく新演出までのサイクルが短い新国立劇場だが、こうした形骸化した演出でしか上演レベルを担保できないならば潔く新演出にしてしまったほうがいいのかもしれない。今更だけれど1994年10月20日東京文化会館、クライバーが最後のオペラを指揮したことになるウィーン国立歌劇場「ばらの騎士」の最終公演を聴いた2300人の観客の一人であったことを幸せに思う。あれを基準にしたら今日の出演者が気の毒だが、同じ演目でこうも違うものかという駄目なほうの見本のような公演だった。官能、陶酔、諦念といったものが一切表現できていなかったからである。


作曲:リヒャルト・シュトラウス 
台本:フーゴー・フォン・ホフマンスタール
指揮:シュテファン・ショルテス
演出:ジョナサン・ミラー
美術・衣裳/イザベラ・バイウォーター
照明/磯野睦
再演演出/三浦安浩
合唱指揮/三澤洋史


出演:アンネ・シュヴァーネヴィルムス/元帥夫人
ユルゲン・リン/オックス男爵
ステファニー・アタナソフ/オクタヴィアン
クレメンス・ウンターライナー/ファーニナル
アンケ・ブリーゲル/ゾフィー
田中三佐代/マリアンネ
高橋淳/ヴァルツァッキ
加納悦子/アンニーナ
妻屋秀和/警部
大野光彦/元帥夫人の執事
村上公太/ファーニナル家の執事
晴雅彦/公証人
加茂下稔/料理屋の主人
水口聡/テノール歌手
佐藤路子/帽子屋
土崎譲/動物商

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団


※出演者変更のお知らせ:オクタヴィアン役で出演を予定していたステファニー・ハウツィールは、本人と所属するオペラハウスの都合により出演できなくなりました。代わってステファニー・アタナソフが出演いたします。
※2015年5月24日(日)初日に、ゾフィー役で出演を予定していたダニエラ・ファリーは、本人の都合により出演できなくなりました。代わりまして、アンケ・ブリーゲルが出演いたします。

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