ベートーヴェン、テンペスト32歳。シューベルト、ソナタ19番ハ短調31歳。

2011年10月25日 04時14分28秒 | 2011年7月24日から11月15日言うよね編
誰も自分がいつ死ぬのかは知らない。

もしベートーヴェンが32歳で亡くなり、このテンペストが絶筆になったとしよう。

わたしはシューベルトの19番ソナタは足元になんとか追い付く作品だと思う。

完成度がそれほどテンペストのが高い。無駄のなさはシューベルトを聞いてみるとわかるが、奇跡的にない。

しかし、シューベルト死の数ヵ月前の作品という知識が邪魔をして、どうしてもそういう思い入れで聞いてしまう。
シューベルトのソナタは20番までは、まさに彼の失敗の連続の渦中にある作品群なのだ!
しかし、可愛い。
なぜか可愛い。
最後に21番という、ベートーヴェンをついに捉え、もしかしたら越えたかも知れないような作品を書いてしまうが、書かなければもっと長生きしたかもしれないものを。

21番においてシューベルトがなしえたピアノソナタ最終稿はそれほどまでに偉大だ。

しかし、ブルックナーの初稿に見られる無駄や煮詰めの足りなさが19番には色濃くあると見る。

それまでの18番以前よりは相当ピアノソナタとして立派には見える。
しかし、やはりアイデアに編集したつなぎめが見える。
第4楽章がまさにそれだ。
しかし、そこがたまらなく可愛いと思った。
未熟さが、かわいさに見えるとは限らないのだが、これは可愛いとしか思えない。

テンペストの隙のなさからみたらずるずるである。30歳を越えてまだこのようなずるずるした作曲をしていたシューベルトはダメ子ちゃんである。
ブラームスは27歳で今日の元になる弦楽六重奏曲第1番を書いている。
イモージェン・クーパーはそう、この三人の30歳前後の憂いを取り上げたのだ。たまたまシューベルトは最晩年になってしまったけど。

こうして年齢で作品を聞くとまた違った感興が沸き起こる。
シューベルトよ!31にも成ったんだからもうちょっと無駄を省け、とか、ブラームス、27で渋すぎだろ、とか、ベートーヴェン32でもう完成しちまってるじゃねえか、とか。

そうなのだ、シューベルトちゃんは、死ぬ寸前までピアノソナタの書き方が分からなかったのだ。
で、あんなやんちゃな第4楽章を書いたのだ。
もうハチャメチャである。
モーツァルトとか聞かなかったのか?と真剣に思う。

しかし、イモージェン・クーパーのあやすこの楽章はそのやんちゃさがシューベルトの美点にまで感じられた。実演では初めて聞くのだが、正直第3楽章までは21番、そこまで行かなくても20番に見劣りすると感じていた。しかし、第4楽章はたしかに面白かった。わたしはシューベルトがシューマンに劣らず精神的に脆弱だったのではないか?と読んでいるのだが、かれはこの第4楽章はどうしていいか分からなくなってしまったのだと思う。破り捨てなかったのはもうここまで書いたのだし、という未練か?

ああ、いい感じだ。
いい感じ。
テンペストの完成度が疎ましく感じるくらい、いい感じだ。

何度もいう。
人は自分がいつ死ぬか知らない。

シューベルトは本当はこれからだったのだ。
このような未熟な作品が彼の代表作の一つになっているのは、晩年というレッテルのためもある。

しかし、可愛い。
しかし、いい感じだ。

それでいい。