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(増補版)451E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年6月)

2016-11-07 06:14:50 | 日記
題:(増補版)451E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年6月9日、板垣退助が、爵位を辞した・・?
  板垣退助は、授爵の勅を二度断っていたが、
  1887年(明治20年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬
 にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、
 伯爵位を授爵した。
  その結果、衆議院議員となることはなく(華族当主に
 は衆院選の被選挙権がない)、
  また、貴族院でも、伯爵議員の互選にも勅選議員の任
 命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかっ
 た。
  1919年(大正8年)7月16日、死去、享年83(満82歳没)
  法名は、邦光院殿賢徳道圓大居士
  なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎
 は家督相続をせず、
  孫の守正が、爵位を返上した。
1887年6月9日、花井お梅事件(6月11日説あり)
  日本橋浜町酔月楼の女将お梅(24歳)が、実父との不
 和(営業にからむ意見対立)にからんで、実父側に立っ
 て、お梅の追い出しにかかった番頭の峰吉を、隅田川河
 畔で刺殺し、父親に告げて自首するという事件があり、
  当時の『東京絵入新聞』が、虚実とり交ぜた読み物の
 『花井於梅酔月奇聞』として連載し評判となった。
  花井お梅は無期徒刑となり、特赦で1903年(明治36年)
 出獄し、芝居で体験を演じた。
  5世富士松加賀太夫(新内節富士松派の演奏家)が脚色
 し、1888年3月に、作曲し、また・・、
  河竹黙阿弥が、歌舞伎の「月梅薫朧夜(つきとうめかお
 るおぼろよ)」とし、
  後に、川口松太郎が、新派の「明治一代女」などの題
 材にして、恋と意地に生きる明治の女を哀切に描き、
  1935年11月明治座で、作者の脚色、花柳章太郎主演に
 より初演し、好評を博し、以後、新派の当り狂言となっ
 た。
1887年6月15日、陸軍幼年学校が設置された。
  陸軍幼年学校は、将来、陸軍の将校を志願する少年に
 対し、初歩的な軍事学や軍事訓練を加味しながら、
  主に、普通学科を教授し、軍人精神の涵養 (かんよう)
 をはかる学校で、
  日本の旧陸軍では、1869年(明治2年)、大阪兵学寮に
 横浜語学所を合して幼年学舎を設け、先進国の軍事知識
 吸収のための教育を始めたのがその始りだった(1870年
 説あり)。
  1872年(明治5年)幼年学舎を陸軍幼年学校と改称し、
 兵学寮から独立した(1875年説あり)、
  修業期間は3年間で、卒業生は陸軍士官学校へ進学した。
  1877年、陸軍士官学校に合併されたが、
  1887年に、再び独立し、また、この年に、幼年学校官
 制が制定され、
  1896年には、中央(東京)と地方の幼年学校が、仙台・
 名古屋・大阪・広島・熊本に設けられた(1897年説あり)
1887年6月15日、博文館(はくぶんかん)が開業した。
  大橋佐平が博文館を創業し、「日本大家論集」を刊行
 した。
  社名は、伊藤博文に由来している。
  大橋佐平の息子・大橋新太郎は、尾崎紅葉の小説『金
 色夜叉』の登場人物、富山唯継のモデルと言われている。
  博文館は、東京の出版社で、明治時代に富国強兵の時
 代の中で、数々の雑誌を創刊し、また、取次会社(東京
 堂)・広告会社(内外通信社)・印刷所(博文館印刷所)・
 洋紙会社などの関連企業を創業した。
  日本最大の出版社。
  大正昭和モダニズムをリードする役割を果たし、
 また、江戸川乱歩、横溝正史ら数多くの作家を輩出した。
  第二次世界大戦後は、社長・大橋進一の公職追放に伴
 い、日記以外の出版を停止させられた。
  辞書部門や雑誌部門は、1948年に、博友社と文友館と
 好文館の三社として分裂した。
1887年6月16日、陸軍各兵科現役士官補充条例が公布した。
  ヨーロッパ列強の東アジアにおける軍事的圧迫を契機
 にしている。
  特に、フランスによる清仏戦争(1884年6月~1885年6
 月)や、イギリスによる朝鮮の巨文島の占領(1887年1月
 まで占領)などの侵略の気配が濃厚だった。
  日本は、この条例公布のほか、1885年7月2日に、広島
 鎮台管轄下の歩兵を対馬に分遣している。
  また、1885年10月6日には、鎮台条例を改正し、沿海諸
 島の防御として、小笠原諸島、佐渡、隠岐、大島、沖縄、
 五島、対馬を既定した。
  また、1886年11月には、臨時砲台建築部のもとに、1887
 年に対馬の海岸防御砲台築設が着工している(1887年に
 竣工)など軍備強化が進められていた。
  当時、陸軍大学校雇教師のドイツ陸軍少佐のメッケル
 が、種々、意見書を提出していて、
  (1)ドイツの師団は、平時には、歩兵と騎兵をもって
    編成し、戦時には全兵科をもって編成するが、日
    本の師団は平時も全兵科をもって編成し、出師準
    備に際しても、配置計画進行上の師団の戦時兵力
    行使における独立的動作の完結性を強調し、
  (2)日本の2個師団を結合・統轄する監軍部の平時の
    業務は繁多でなく、戦時の戦力聚束は実施できな
    いので軍団・監軍部として編束する必要性はなく
 ・・云々と、日本の方向性に重要な提言をしていた。
1887年6月18日、京橋で外人を含めた相撲興行が行われた。
  (郵便報知新聞、6月15日、6月18日、6月19日)には、
  六月十八日より三十日まで、東京築地南小田原町四丁
 目四番地にて、ウエブスター・剣山の内外合併相撲。
  [広告]和洋大角觝廣告 此大角觝興行タルヤ、従来
 欧米各国ニ行ルヽ「スパラ」「ラスラ」ノ類トハ大ニ異
 ナリ、全ク日本大力士剣山、一ノ矢、大鳴門、西ノ海以
 下数名ト西洋諸国ノ大力士エム、ウエブスター」ビイデ
 イヨング以下数名取組、真見無垢其度力技術ノ優勝劣敗
 ヲ試ントスル者ナレバ、実ニ宇内未曾有ノ珍事ト云フベ
 シ。
  依テ今回江湖諸彦ノ愛顧ニ供セン為メ、東京築地南小
 田原町四丁目四番地ニ於テ、晴天七日間興行相催候間、
 陸続御来観アランコトヲ伏テ奉仰願候。
  (読売新聞、1887・9・6)には、九月八日より晴天七
 日、東京日本橋区中洲にて、ウエブスター・岩城の内外
 合併相撲(第三回目の興行)。
  「浅草田原町一丁目斎藤元吉が願人にて、来る八日よ
 り十四日まで中洲町に於て和洋合併相撲を興行するよし。
  此の外国人力士はマレース、ウエブスター外一名、日
 本力士は岩城松外三十五名なりとぞ」
1887年6月23日、ノットと田中舘愛橘、全国の地磁気測定を
 開始した(~10月まで)
  東京帝国大学のお雇い外国人教師ノットの提案で、こ
 の時から10月にかけて、日本全国地磁気測量が実施され
 た。
  地質調査所では、第一回国際極年観測期間中にナウマ
 ンの指示で、全国の地磁気測量を行い、
  その観測結果をもとに、ナウマンが、フォッサマグナ
 と地磁気分布とが密接に関係すると主張した。
  ノットと田中舘は、ナウマンらの観測結果に疑問を抱
 き、全国の地磁気再測量を行った。
  ノットと長岡半太郎とが、東北日本と北海道の50ヶ所
 でキュー型携帯用磁力計とキュー型伏角計を用いて、
  田中舘愛橘が、南西日本と朝鮮半島の31ヶ所で、田中
 舘式電磁方位計とキュー型伏角計を用いて観測を行った。
  ノットと田中舘によれば、フォッサマグナ付近に、地
 磁気の異常な変化は認められなかったという。
  また、明治24年(1891)10月28日午前6時37分、中部地方
 に強い地震が起こった(濃尾大地震)
  この地震の直後、田中舘愛橘は現地に入り、震源地付
 近の地磁気測量を行った。
  この付近には、1887年(明治20年)の全国地磁気測量の
 際の測定点があったので、同地点で再測量をし、データ
 を比較することが目的だった。
  この現地調査により、地震の前後で、地磁気に変化が
 あったらしいということになった。
  そこで、更に、詳しい調査を行うため、12月から翌年・
 1888年1月にかけて、田中舘愛橘、長岡半太郎らが中部地
 方の磁気再測量を行った。
  これらの調査から、田中舘らは、地震活動にともなっ
 て磁場が変化した可能性が高いと報告した。
1887年6月23日、東京ホテルが開業を諮った。
  外務大臣井上馨、新ホテル建設を渋沢栄一、益田孝、
 大倉喜八郎らに諮(はか)る。
  1887年12月、印鑑届けなどの3通の「御届書」を東京府
 知事に提出、有限責任東京ホテル設立 (資本金26万円)
  後の、帝国ホテル。
  帝国ホテルは、1890年(明治23年)11月3日に落成、
  同・1890年11月7日に開業した。
  隣接する鹿鳴館と密接な関連を持ったホテルとして井
 上馨が、渋沢栄一と大倉喜八郎の2人を説いて、
  1888年(明治21年)有限責任帝国ホテル会社(設立当
 初は有限責任東京ホテル会社)を設立させた。
  初代の帝国ホテルは、渡辺譲 設計、木骨煉瓦造、3階
 建、客室数約60。
  1890年(明治23年)竣工。
  1919年(大正8年)失火から全焼した。
  ・・そして・・
  ライト館は、フランク・ロイド・ライト 設計。
  鉄筋コンクリート、および、煉瓦コンクリート造、地
 上3階(中央棟5階)、地下1階、客室数270。
  1923年(大正12年)竣工。
  1968年(昭和43年)新本館建設のため解体された。
  1917年(大正6年)にライトは来日し、1919年(大正8
 年)9月、着工した。
  ライトは、使用する石材から調度品に使う木材の選定
 に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨んだ。
  色々な苦難の中、ライトは、施工の総指揮を続けてい
 たが、
  1922年(大正11年)4月、隣接する初代帝国ホテルが、
 失火から全焼すると、新館の早期完成は経営上の急務と
 なり、設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は
 避けられなくなった。
  さらに、当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がる
 に至って、林は総支配人を引責辞任、ライトも精魂注い
 だこのホテルの完成を見ることなく離日した(同年7月)。
  一部完成済みの部分を利用してホテルは営業を再開し
 た。
  ホテルの建設は、ライトの日本における一番弟子だっ
 た遠藤新の指揮のもと、その後も続けられた。
  1年後の1923年(大正12年)7月、着工以来4年の歳月を
 経てライトの本館は完成した。
  9月1日に落成記念披露宴が開かれることになったが、
 関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙
 しの時だった。
  周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりす
 る中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変
 わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルはひときわ
 人々の目を引いた。
  ライトは、二週間後このことを遠藤からの手紙で知り
 狂喜したという。
  1945年(昭和20年)3月10日~3月11日の東京大空襲で
 は、本館中央部から南翼、孔雀の間、演芸場などに多く
 の焼夷弾が落ち、焼失は総床面積の四割強に及ぶ大きな
 被害を受けた。
  終戦ともに、帝国ホテルはGHQに接収され、そこで大規
 模な修復工事が行われ、復旧した。
  震災にも空襲にも耐えたこのホテルの存続を訴える大
 規模な反対運動が起ったが、
  本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き雨漏りがすると
 いった老朽化の問題もさることながら、都心の一等地を
 占有する巨大な建造物の客室数がたったの270では話にな
 らなかった。
  本当にもったいないことだが、この「人類の至宝(し
 ほう、この上なく大切な宝)」は解体された。
  そして、ライト館の玄関部分は、博物館明治村(愛知
 県犬山市)に十数年の歳月をかけて移築再建され、今日
 でも在りし日の面影を偲ぶことができる。
  その一部分でも、いかにライト設計の帝国ホテルが素
 晴らしかったかが分かり想像できる。
  だから、故に、すべてを残して戴きたかった。
  日本は、ライトが精魂を傾けて戴いた宝を失った。
  二度と得られぬ人類の宝を失ってしまった。
  日本に残す気概が欲しかった。
  (色々な事情はあるでしょうが、経済性だけで計れな
 い「大きな価値」があると、そして、それが大切だと思
 って戴きたかった)
.
  (今日の言葉)
.
  題:歴史の落穂ひろい
   書き落した事柄を、以下に拾い書きします。
.
紀元前318万年前、ルシーの死因
  「ルーシー」の愛称で知られる約318万年前の猿人の死
 因は、
  「木から落ちたためだった」とする研究成果を、アメ
 リカのテキサス大学などのチームが発表した。
  地上の生活が増え、木登りの能力が落ちた可能性があ
 るという。
  論文が、29日、イギリス科学誌ネイチャーに掲載され
 た。
  ルーシーは、1974年に、エチオピアで骨が見つかった
 猿人の女性。
  地上と樹上の両方で暮らした初期人類で、それ以前の
 猿人より二足歩行に適応していたと考えられている。
  チームは、骨をコンピューター断層撮影法(CT)で分
 析。
  腕や足首などの折れ方から、12メートル以上の高さか
 ら落ちて骨折した可能性があることが分かった。
  骨折が治った後がなく、チームは木から落ちた直後に
 命を落としたと推定した(読売新聞、2016・8・31)
.
紀元前6000年、ワインの醸造
  ブドウは、数百万年前には存在していて、現生人類よ
 りははるかに古い。
  西アジアには、多くのブドウの野生種が自生しており、
 約8000年前の新石器時代に、ワインを醸造したことを示
 す最古の証拠がある。
  最初は、自家消費のために作られたと考えられている。
  西アジアの中心である古代メソポタミアでは、約5000
 年前には、神への捧げものとして神殿で飲まれるように
 なった。
  都市の発展とともに、支配者階級の祝宴で消費され始
 めた。以下略、(読売新聞、2015年11月17日)
.
7世紀、随書倭国伝
  隋書は唐の魏徴撰。
  魏徴(ぎちょう)は、唐の政治家(580年~643年)
  唐の二代目、太宗(李世民)の貞観二年(628年)、学
 者を率い、数年かけて戦乱の間にバラバラになってしま
 った四部書(経、史、子、集)を校訂したとされている
 (旧唐書魏徴伝。新唐書では貞観三年)
  隋書も、この間に編纂された。
  その書の中に・・日本についての記述・・、
  (日本)人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜
 賊も少なく、
  百済・新羅は、日本(倭)を尊敬して仰ぎ、使いを通
 わせていた。
.
1274年の文永の役の後、総司令官・忻都が、元の世祖フビ
 ライに報告した記録『元韃攻日本敗北歌』
  倭人は、狠ましく死を懼れない。
  たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。
  勝たなければみな死ぬまで戦う。
.
1281年、元寇(弘安の役)があった。
  元寇(この弘安の役と1274年の文永の役)の後、日本
 に「神国・日本」の国家観が沸き上がった。
  鎌倉仏教の始祖たちが「日本精神の立て直し」という
 役割を果たし始めていたが、ここに、日本は、蒙古襲来
 期のあれだけの危機を乗り越えることが出来た。
  また、襲来時に、「神風」が吹くという事から、「神
 国・日本」という確固たる自画像が、広く、かつ深く定
 着した。
  日本観、国家観というものが、中世のこの時期に生ま
 れた。
  元寇は、皇室を中心としたまとまりがなければ、日本
 は対外危機に対処できない、という考え方を日本の中に
 深く刻印した。
  そして、後醍醐天皇の「建武の中興」を生み出して行
 く。
.
1500年、ポルトガルが、ブラジルを植民地にした。
  サトウキビ栽培が大成功し、17世紀前半には、ブラジ
 ルは、世界最大の砂糖の産地となった。
.
16世紀、日本では、16世紀の戦国時代から庶民に対しての
 「おふれ」が立て看板で掲示されていた。
  当時、来日した宣教師達が、一様に驚いているのが、
 日本人の教養と、識字率の高さである。
  日本を絶賛した世界の知識人達。
.
1537年、犬山城が、信長の叔父・織田信康によって築かれ
 た。
.
1563年、ルイス・フロイスが来日した。
  ポルトガル人、宣教師、1563年(永禄6年)来日。
  日本製の鉄砲の性能と品質を世界最高と評した。
.
1543年(天文12年)に、ポルトガル人宣教師が、2挺の鉄
 砲を日本人に与えたところ、
  40年後には、その鉄砲を遥かに凌ぐ高性能の物を量産
 する事に成功し、
  1583年(天正11年)に、ポルトガル人が戻って来ると
  既に、ヨーロッパの鉄砲の総数を越える数を所持して
 いた。
.
1617年、犬山城を、家康の重臣・成瀬正成(まさなり)が
 拝領した。
  以来、代々、成瀬家が城主を務め、城下町を築いてい
 った。
.
1776年7月4日、アメリカの13植民地は、大陸会議で「独立
 宣言」を採択した。
  ジョン・ロックの社会契約説の圧政に対する抵抗権を
 根拠として、新国家樹立を宣言した。
  これは、第二次世界大戦に至る石油の禁輸など、アメ
 リカの日本に対する不当な圧力とまったく同じで、
  日本が抵抗権を行使する正当な理由と同一だった。
.
1842年、イギリスが、中国の方々を虐げたアヘン戦争が終
 わった。
.
1859年、イギリス公使オールコックが来日した。
  『大君の都』
  大君:たいくん:徳川将軍のこと
  イギリス公使オールコック (安政6年 1859年 来日)
 には・・、
  一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずに度々か
 らだを洗い、
  身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住
 み、
  その家は広くて風通しの良い街路に面し、そしてまた
 その街路には、不快なものはなく、荷物を置くことを許
 されない、
  というふうにいうことをはばからない。
  すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋
 民族より大いにまさっており、とくに中国人にはまさっ
 ている。
  中国人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻をもっている
 人ならだれでも、
  悪寒を感じないわけにはゆかない。
.
1878年、榎本武揚が、シベリアを馬車で横断した。
  この時、彼は、車中で克明な「シベリア日記」を付け
 た。
.
1878年6月~9月、『日本奥地紀行』が、イザベラ・バード
 によって執筆された。
  その中の記述に・・、日本について・・、
  「貧民階級の衣類や母屋がどんなに汚くても、
  料理の仕方と、その料理を供するやり方は極端に清潔
 なのだ・・とある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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