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キリスト教徒の曽野綾子氏の言葉について思うこと・・。

2013-06-11 01:06:33 | 日記
題:キリスト教徒の曽野綾子氏の言葉について思うこと・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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曽野綾子氏の言葉:
((氏のこの言葉は、『性悪説のキリスト教徒は、この様に考え
る』というよい事例となっています。括弧の中は、『私の感想』
です))。
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 曽野綾子氏は、1931年、東京都生まれ、80才、聖心女子大
英文科卒。キリスト教系幼稚園に通いキリスト教文化に親しむ。
右と左足首をそれぞれ1回骨折したが、克服して執筆・講演活
動した女丈夫である。
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[言葉](抜粋)::
 カトリックの学校で育ったので、すべてにおいて、いい人な
どいないことを比較的若い時から分るようになりました。
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((私の感想:氏は、キリスト教の教育を受けた結果、「いい
人」とか、「徳のある人」とか、「人類の幸せに貢献した人」
とか、「素晴らしい政治家」とか、「発明・発見をして人々の
幸せを実現した人」とか、などなど、私たちが「いい人」と感
じ、「いい人」と思い・言われ・慕っている人たちに対して、
曽野氏は「いい人などいない」と思い、分かる様になったとお
っしゃっています。これはあまりにも、人に対しての『悲しい
見方』に感じます。キリスト教の性悪説がここまで曽野氏の人
格へ、人の見方へ影響しているのかと驚きに感じました))。
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 キリスト教は性悪説ですから、人間はそのままにしておけば、
人間の尊厳を失うほどに堕落することも簡単である。
 しかし信仰によって、或いはその人に内臓されている徳性に
よって、人間を超えた偉大な存在になれる、ということをきっ
ちりと教えられたのです。
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((私の感想:キリスト教は性悪説とはっきり、曽野氏は、確
認の言葉を言われています。そして、人に徳性というものがあ
って、偉大な存在になれるということは教えられました・・と、
言われていますが、曽野氏は前項で言われた様に「いい人はい
ない」と思い、分かる様になったと言われています。「徳性が
ある人が偉大な存在になれる」ということは教わったが・・と
言われていますが、それは、例外的に捉(とら)えられている
ということで、それはイエス・キリストの事を言われていると
感じます。つまり、イエス・キリスト以外の人たちは、「いい
人などいない」と思い、分かっていますと言われています。結
局、人をキリスト教の性悪説で見て居られているということで
す。曽野氏が、そう思われるのも「それもそうだ」と思います。
それは、「人は、いい人もいる」と言った場合、キリスト教の
大根幹の教義である「人には原罪がある」という『性悪説』の
大根本の教義を否定することになるからです。こうなったら、
キリスト教は成立しません。この立場で、すべての教義が説か
れているからです。「人は、いい人もいる」の一部の限定であ
っても、「いい人を認める」と教義が崩れるため、「絶対に認
めることはできない」ということになります))。
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 日本人の多くは、人は皆いい人という性善説が好きですが、
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((私の感想:「好き」という言い方ではなくて、「日本人は
性善説が『正しいものの見方』と思い・心得ていると言って戴
きたいところです))。
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 私のように性悪説だと、だれでも嘘をつくだろうと思ってい
ると、騙されなかったり、むしろ救ってもらったりする。
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((私の感想:曽野さん、よかったですね。でもこれは、自分
の説に対する「勝手読み」ですね。誰でも嘘をつくものだから
と警戒的にしていると騙されなかったり、警戒していることを
憐(あわ)れんで手助けしてくれる、救ってくれると言われて
いるのだと思いますが、自分の考えの「いいところだけを見て
いる」状態です。これこそ、自分の説が正しいと「性善説的に
見ている」と言えます。無理な論理展開に陥(おちい)ってい
ると感じます。つまり、この論理の逆も成立するからです))。
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そのとき、自分の性格の嫌らしさに苦しむことはあっても、い
い人に会えて良かったという喜びは大きい。
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((私の感想:人を悪く見るという「後ろめたさを感じる」と
おっしゃっているのですね。そうだと思います。また、いい人
に会えた喜びと言うのは、「性悪説」だから会えたのではなく、
相手の方が「たじろいでいる曽野さんを見て、性善説的に救っ
て差し上げたい、お手伝いをして差し上げたいと思ったから会
えたというところも、一面ではあることを気付き、そして、そ
う見て戴きたいですね))。
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 しかし最初から皆いい人で、社会は平和で安全で、正しいの
が普通だと信じこんでいると、あらゆることが不用心になって
よくて当たり前と感謝すらしなくなる。
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((私の感想:これは偏頗(へんぱ)な言い方であり、見方で
すね。性善説だと、総べて、手放しでアホの様に物事をよい方
に見る人になってしまうのでしょうか?だから、『戦争もない
平和な世界なのだ』と見る人になってしまうのでしょうか?先
の大戦で、日本人は何と300万人の方々が無くなったのですよ。
広島・長崎の原爆で多くの市民の方々が亡くなったのです。そ
の様な知識もなく、何も感じない人に、性善説だとなってしま
うという見方こそ、曽野さんは、そうなるから性善説は怖い説
だと「性悪説的に見ているだけ」ではないですか?))。
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 それだけでなく、自分以外の考え方を持つ人を想定する能力
にも欠けてきます。
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((私の感想:これは、言い過ぎです。性善説の人たちが「自
分以外の人たちの考え方を想定する能力が欠ける」と断定され
ていますが、性善説の方々が、ある一つの説である性善説のみ
の意見のみを想定出来、その考え方以外の「性悪説の考えを持
つ方々を想定する能力に欠ける」とおっしゃっていますが、つ
まり、私は、性悪説の曽野さんの考え方を、この様に書いてい
る性善説の私なのですが、この様なことは、例外とおっしゃる
のでしょうか?例外ではありません。人には基本的立ち位置が
あるのです。その立ち位置が「性善説的か」「性悪説的か」の
違いだけであって、立ち位置が違ったら、違う立場は見えなく
なるという考え方は間違いです。そうであるなら、国会で議論
ができなくなります。立ち位置が違っても議員の皆さまは全体
を見れていて、御自分の理想に向かって議論を闘わせることが
できるのです))。
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 私は誰もが信仰を持つべきだ、などと言う心算はありません。
 しかし人間の視点だけで、人間の世界が見通せるとはどうし
ても思えない。神の視点というものがあってこそ、初めて私た
ちは人間世界の全体像を理解できるような気がしてならないの
です。
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((私の感想:これは、曽野さんの宗教観の「巧妙なる伝道行
為」です。各人が持つ宗教、及び、宗教観は自由ですが、神の
視点か、仏の視点かを比較して、その論理を展開して、考察し
たことを言った訳ではなく、この様な言い方で、早く言えば、
『個人の好みの披露』の様な言い方で、何ら論理的な所がない
言い方は変えて戴きたいと思います。ある意味、感情論となっ
ています。小生のブログには、その点を「真を求めて」という
立ち位置で、一生懸命、知ろう・知りたい、そして、皆様と共
に幸せになりたいと努力しております。ご覧いただきたいと思
います。そして、ご意見を承れればと思います))。
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 少年期、青年期は体の発育期、壮年と老年は精神の完成期で
あり、とりわけ老年期の比重は重い。
 私は孤独と絶望こそ、人生の最後に充分味わうべき境地なの
だと思う時があります。この二つの究極の感情を体験しない人
は、多分人間として完成しない。
 孤独と絶望は、勇気ある老人に対して「最後にもう一段階、
立派な人間になって来いよ」といわれるに等しい、神の贈り物
なのだと思います。
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((私の感想:これは、曽野さんの、現在のお気持ちであり、
感じていることなのでしょう。その披露という訳で、これはこ
れで良いと思います。賛同したという訳ではありません。例え
ば、人間の完成の仕方には非常に多くの完成の仕方があり、そ
の多様な仕方をすべて知りたいと努力をし、そして、知った部
分で、自分はこれだと自主的に選択し、行っていく、そして、
完成へと向かって行くのだと私は思っています。これは私の考
えです))。
(参考)へん‐ぱ【偏頗】 [名・形動]《「へんば」とも》かた
よっていて不公平なこと。また、そのさま。 

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