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(増補版)434E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月~1886年10月)

2016-10-13 16:50:39 | 日記
題:(増補版)434E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月~1886年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年10月24日、星亨・中江兆民らが、全国有志大懇親会
 を開催した(大同団結運動提唱、~1889年)
  1890年の国会開設を間近に控えて、民権運動の再興を
 かけて、大同団結を呼びかける全国有志大懇親会で、
 204人が参加した。
  当初、星・中江らの、主に旧自由党・立憲改進党の党
 員に「小異を捨て、大同団結する」ことを求める呼びか
 けを起すことに始った。
  翌年の1887年、井上馨(かおる)外相の条約改正案の屈
 辱的内容が暴露されると、
  両派は、提携して、全国各地で条約改正中止建白運動
 を展開した。
  それはさらに、地租軽減、言論・集会の自由をあわせ
 た三大事件建白運動に発展し、
  建白書提出委員が、続々上京、往年の民権運動の全盛
 期を再現するに至った。
  こうした下で・・、
  1887年10月、後藤象二郎提唱の旧自由・改進両党有志
 の懇親会と、それに続いて丁亥倶楽部が設立され、団結
 が呼びかけられた。
  古老財産家と壮士とが結合して議会政治を実現するこ
 とを訴えた。
  しかし、諸派の結合は色々と問題も生じ、また、弾圧
 も受け、
  自由民権諸派の統一的反政府運動だったが・・、
  1889年、後藤の黒田内閣への入閣で分裂・挫折した。
1886年10月25日、信濃教育会が雑誌を創刊した。
  1886年7月に、信濃教育会が結成され、同年10月に、月
 刊誌「信濃教育」が創刊された。
1886年10月26日、薩摩、大隈に多数の隕石が落下した。
  薩摩隕石(国際名称:九州隕石)は、1886年(明治19
 年)10月26日午後3時ごろ、県北部の伊佐地方に落下し
 た一群の隕石で、
  そのうちの一つが、鹿児島県立博物館に所蔵されてい
 る。
  隕石の落下地点は、当時の状況が不明で詳しいことは
 分からなかったが・・、、
  昭和40年代後半になって、落下地点の調査が行われ、
 隕石の分布と新聞の記事から、南東から北西へ向かって
 落下したことが明らかとなった。
  薩摩隕石の多くは、国外に流出し、国内では国立科学
 博物館など4施設のみに収蔵されている。
  鹿児島県に落下した隕石でありながら、県内に1個もな
 かったが、
  2001年(平成13年)に買い戻された。
  鹿児島県立博物館の薩摩隕石がそれで、貴重な文化財
 となっている。
  (鹿児島県教育委員会のホームページを参考にした)
1886年10月、東京感化院が改称された。
  1885年に高瀬真卿によって設立された日本最初の組織
 的な少年感化院は、
  設立当時には、私立予備感化院と称した。
  翌年の1886年に、東京感化院と改称した。
  東洋的な儒教精神と、それに基づいた家族制による感
 化が行なわれた。
1886年11月3日、鹿鳴館大舞踏会 夜会パーティー
  この日は、明治天皇陛下の誕生日(天長節)であった。
  国内でも、天長節としての祝賀会行事をはじめ、数々
 の国内行事が行われていた。
  そして、井上馨外務大臣の招待の鹿鳴館大舞踏会が開
 かれた。。 
  明治天皇陛下は、改正大元帥御正装を着用された。
  因みに、日本で初めての舞踏会(ダンスパーティー)
 は、1883年11月28日に、鹿鳴館で行われていた。
  そして、この鹿鳴館大舞踏会について・・
  「東京日々新聞」(明治19年11月5日号)の記事には、
  「天長節井上伯爵の夜会・・、
  一昨日は、我が皇帝陛下の天長地久の吉辰を祝し奉ら
 んが為、
  朝の程は、皇族、諸大臣、各国公使、諸省の勅奏任官、
 華族の面々、何れも晴れの礼帽盛服を着し、馬を走らせ、
 車を軋らせ、皇宮に参朝して聖寿を祝し奉り、
  又、市内にありては、高歴々の門戸は申すに及ばす、
 賤が屋の軒端までに、国旗を翻して遥かに万歳を唱え、
 奉れるは実にめでたき事なりかし。
  されば、我が外務大臣伯爵・井上馨、同・伯爵夫人の
 ご両所にも、この吉辰を祝し奉らんとて
  皇族、大臣、各国公使を初め、朝野の貴顕紳士
  凡(およ)そ千六七百人の方々へ招状を発せられいと
 盛大なる夜会を、鹿鳴館に催されたり。 中略
  午後九時頃、参館したるに、先ず、館の楼上なる正面
 には、瓦斯燈にて、鹿鳴館とへる三字を顕し、
  館の周囲、及び、庭園には、瓦斯燈と球燈とを建て列
 らねかけ並べたれば、
  宛ずら(あたかも)白昼の如し。 中略
  当夜のご主人 井上伯爵は、大臣の盛服を着せられ、綬
 を帯び、章を掲げ、伯爵夫人と並べ立ちて、一々来賓を
 迎へらる
  御両所共に、いつもながら笑みを含み、温顔もて普く
 来賓を接せらるれば、参られし方々も、一入嬉しげに見
 受けられぬ。
  扨(さて)楼上の正面なる壁には、一坪余りあらんと
 思しき造り菊の扇子を掲げ、
  緑色の扇面に白菊の花にて、Welcome (恭待)
 の一字を造り出したるは、殊に目醒しく見えし。
  階上の横手には、藤棚を設け、山鳥の尾の長々しくも
 紫の花を垂れたり、
  その他、花瓶の挿花と云ひ、卓上の飾り花と云ひ、
  皆菊の花を主として、用ひられしは、聖上の寿を祝す
 る寓意なるべく、
  藤の花の長く垂れたるは、大君の御代とこしなへに久
 しきを寿きたる趣向にやあらん。中略、
  参着せらるる方々を見受くるには、伏見宮・白川宮両
 殿下、及び、御息所大臣には、三條(条)、伊藤、山縣
 (県)、松方、榎本の諸公閣下、
  公使には、英・米・独・仏・露 等、およそ条約国公使
 閣下、及び
  館員 英国水元師 副提督 ハミルトン君、及び、同国海
 軍士 御雇外国人 京浜外国領事紳商 その他
  我が各省次官、元老院議官、在京府県知事、諸奏任官、
 華族、及び、紳士紳商など、凡そ、千余名。
  或いは、令夫人を伴はれ、或いは、令嬢を携へられた
 り。
  婦人方の服装は、概ね、西洋服にて何にて美を競ひ麗
 を争はれたるは、
  暫く措き長き裳を垂れたるは、従来のすそ長がよりも
 見栄あり。
  仏蘭西紋緞子の衣は、唐織錦の打ち掛よりも粹(粋)
 なり。
  尤(最)も、打ち掛を着せられし夫人方は、一二を見
 受け参らせたるが、一と夜会 夜会に追々減少する姿なる
 は、彌(弥)々(いよいよ)、西洋フハッション(流行)
 の上等社会に染み込みたる一証にやあらん。
  去る流行なれば、縮緬紋付すそ長の奥方、令夫人は一
 人もなし。
  (但し、この前の夜会には屡々(しばしば)見受けた
 り) 
  さて、 九時過ぎより、踏舞の宴が開かれ、内外紳士、
 貴夫人方の音楽に連れて、舞ひ躍らる様は、いつもなが
 ら感心なり。
  但し、新西洋下りの紳士の年々増加すると、貴夫人方
 の踏舞に身を入れらるる方々の月に増加するとにより
  前回よりも、今回が、我日本紳士、夫人の中に舞い手
 の増加せるも結構の事なり。 中略
  舞踏も終へ、諸賓の散ぜられしは、昨日午前の一時頃
 なりき。
  総じて申さば、この日は祝日の上にも天気はよし、そ
 の上、御主人は、井上伯までありつれば、来集の人数も
 殊に、夥しく、観衆も亦(又)た極まりなき様にて、稀
 なる盛会好宴なりき。
  左(さ)れば、さしもに、広き鹿鳴館も、一作夜は殊
 更(ことさ)らに狭きを覚えたりき」
  ※:この鹿鳴館大舞踏会では、和服(着物)を着た女
   性は皆無だった。
1886年10月31日、臨時砲台建築部を設置した。
  ペリー来航の黒船ショックから始まった明治維新の事
 業は、首都防衛のための東京湾防御を喫緊の課題として、
  1880年(明治13年)から砲台の築造を始めていた。
  しかし、財政の圧迫から、1886年(明治19年)3月には、
 東京湾の膨大築造は一時中止となった。
  しかしながら、列強のアジア進出という国際状況、な
 かんずく、朝鮮半島と同海峡を巡る国際的緊張で募る危
 機感のもと、
  1886年(明治19年)9月に、海岸防御の速成を要すると
 いう意見書が提出され、
  東京湾、大阪湾、下関、佐世保、長崎の5か所の速成が
 必要であるとされた。
  そして、1887年(明治20年)4月から対馬で4つの砲台
 築造が開始された。
  また、1886年(明治19年)11月30日には、臨時砲台建
 築部の設置がなされ、築城業務主管、工兵方面はこれに
 従属された。
  そして、対馬要塞の第一期砲台として知られる、芋崎、
 大平(低)、温江、大石浦の4砲台、
  これらを1887年に起工し、翌年・1888年の竣工となる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:満州事変の起因となった「田中上奏文」は、ソ連の偽装工作だった。
.
2005年、この年の春、ロシアのモスクワのテレビやラジオ
  は、
   第二次世界大戦の開戦以前の、満州における、「ソ
 連の対日工作」について放送した。
  それは、ソ連がやったこととはいえ、自(みずか)ら
 を白状する様な放送だった。
  ロシアという国になって、このロシアは、80年前のソ
 連時代のことの『真実を白状した』。
  それは、ソ連のKGB(ソ連国家保安委員会)の前身
 のOGPU(国家政治保安部)が、嘘の、偽装の工作を
 したと白状するものだった。
  (参考)OGPU(国家政治保安部):ソビエト連邦
    のレーニン、および、スターリン政権下で、反政
    府的な運動・思想を取り締まった(弾圧)・・秘
    密警察(ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委
    員部附属国家政治局)
  当時、「田中上奏文」というものがあった。
  この文書中に、「日本が、支那(中国)の征服から、
 世界を征服する」・・と・・、日本が、世界征服をする
 という意思があると書かれていた・・、
  当時、これが日本のやろうとしている事(目論見)だ
 と言われた。
  この事で・・日本は責められた。
  中国のメディアから、「日本が、満州から北支(中国
 北部)に侵略を始める」・・と大々的に宣伝された。
  「証拠は、これだ」と、「田中上奏文」が示された。
  世界は、これを信用した。
  満州における、排日運動が激化した。
  共産党が煽(あお)った。
  満州に居た日本人は、居たたまれない状態に置かれた。
  利権が奪われた。
  せっせと日本から持って来た財産や資金や・・そして、
 労力を投資して得た利権・権利だった。
  また、その権利だけでなく、生命までもが危険となり、
 財産も奪われた。
  この様な煽り(あおり)と、展開の中で、満州事変へ
 と至って行った。
  しかし、この様な動きへの切っ掛けとなった、そして、
 その中心にあった「田中上奏文」が、
  何と!! ソ連の偽造した文書だったと、「2005年に
 なって、80年もの経た後になって、ロシアが暴露した、
 白状した」。
  日本は、これ以後、どれだけ「卑劣な歴史」を体験さ
 せられたと言うのか・・この事によって・・、
  ソ連と中国による、嘘の、偽りの、「日本、追い落と
 しの工作」の行為だった。
  東京裁判において、アメリカやイギリスなどの連合国
 側は、この事を知っていた。
  連合国側は、この事を「嘘・偽りと知っていた」ので、
 東京裁判の証拠として採用しなかった。
  完全なる偽造文書と知っていた。
  この工作と、プロパガンダ(嘘宣伝)によって・・、
  1930年代の初頭には、この日本に不利なデッチアゲ・
 プロパガンダは、世界中に広がって、信じられていた。
  日本は、益々、世界の中につま弾(はじ)きにされ、
 孤立して行った。
  残念ながら、当時も、日本政府は、全力をあげて真実
 の説明に努めなかった。
  今・現代の、韓国の慰安婦問題と同じである。
  以上の様に、『些細な問題ではない』のだ。
  大きな問題であって、なんだかんだと関わって、物事
 が、悪い方向へ転がって行くものなのだ。
  この時も、当時も、「日支友好」の外交方針で・・、
 言うべき事を言わずの外交を展開した。
  日本の悪い面が出ていた。
  説明すべき事を言わずに良くなる訳はない。
  世界は、「日本は、こんな国なんだ」と、すっかり事
 実だと思い込んでしまった。
  日本への異常な嫌悪感を持っていたアメリカ大統領の
 ルーズベルトも・・、この文書を読んで居た。
  そして、「日本との戦争を作った」と言ったこのルー
 ズベルト=アメリカ大統領は、
  この「田中上奏文」を読んで、非常に強い嫌悪感と、
 強い反日感情を抱(いだ)いたという。
  まったく恐ろしいことだ・・、日米の戦争の岐路に、
 この文書=偽造された文書が存在した・・あった。
  本「ルーズベルト秘録」にも記載されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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