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(増補版)438E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年12月~1886年12月)

2016-10-18 16:13:58 | 日記
題:(増補版)438E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年12月~1886年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年12月22日、小宮山桂介(天香)が、翻訳本の出版に
 際し版元の鳳文館館主との契約書に「一部拾銭」(印税
 の始まり)と記した。
  東京朝日新聞社の初代主筆を務めた小宮山桂介(こみや
 まけいすけ)(天香(てんこう))が、
  エルクマン・シャトリアンの『マダム・テレーズ』を
 『慨世史談・断蓬奇縁(だんほうきえん)』と改題して出
 版した際、
  鳳文館(ほうぶんかん)の前田円と出版契約を交わして
 決めたのが最初。
  翻訳出版の場合は、原作者と翻訳者への印税が合算さ
 れるため高率になる。[
1886年12月30日、水戸で大火(上市の大火)、焼失1800戸
  水戸は、江戸時代、徳川御三家の一つ水戸藩の城下町
 として栄え、
  台地に築かれた水戸城を中心に、武家屋敷が建ち並び、
 上市(うわいち)と呼ばれた。
  一方、それより東側の低地には、町人が住みついて職
 業ごとの城下町を形成し、
  街道沿いには、問屋街が出来て、市が立つなど、流通
 と軽工業で発展し、下(しも)市と呼ばれた。
  その下市が、1884年(明治17年)5月、1200余戸を焼失す
 るという大火に見舞われた。
  そして、その2年後の1886年のこの日、今度は、上市が
 大火に見舞われた。
  午後2時ごろ、信願寺町より出火し、泉町、五軒町、荒
 木町、藤坂町と、次々と灰にした炎は、
  瀧岡町、西町から仲町、鉄砲町と延焼、
  大坂町、備前町まで焼き進むなど、上市の8割を焼土と
 化した。
  焼失家屋1800余戸、
  上市には、官公署や学校、会社が集中していたので、
 甚大な損害となった。
  主な、焼失した施設は、電信分局、水戸警察署、陸軍
 駐在所、東茨城郡役所、大林区署、茨城県尋常師範学校
 (現・茨城大学教育学部)、上市戸長役場、上市東小学校、
 茨城日報社、第百四国立銀行(現・常陽銀行)、川崎銀行
 水戸支店など。
  火災後、当時の茨城県知事は、この大火を契機として
 とらえ、水戸市街地の街区を整備し、道路を拡大するな
 ど、近代的な都市づくりを行った。
  (出典:水戸市史編さん近現代専門部会編「水戸市史
  下巻 1」を抜粋、参考にした)
1886年12月、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が、チャリ
 ネ曲馬団を舞踊化した「鳴響茶利音曲馬(なりひびくち
 ゃりねのきょくば)」を千歳座で初演した。
  別史料に:チャリネの人気を当込みに、十一月十六日
 より尾上菊五郎が東京千歳座で「鳴響茶利音曲馬」を上
 演した。
  別史料に:1886年(明治19年)11月16日、地域:東京、
 劇場:千歳座、外題:鳴響茶利音曲馬、音曲:義太夫と
 清元、芸種:歌舞伎・・とある。
  また、別史料に:1886年に、この公演に強い衝撃を受
 けた五代目尾上菊五郎は、『鳴響茶利音曲馬』という猛
 獣使いなどが登場する歌舞伎を上演している・・の記述
 あり。
1886年1月、イギリスが、ビルマを併合した。
  19世紀の初頭、ビルマ(現ミャンマー)は、清国を宗
 主国としていた。
  後に、イギリスの侵略を受けた。
  1824年に、ビルマ戦争が始まる。
  清国は、ビルマへの援軍を出し、ビルマ軍と共に、イ
 ギリスと戦うが・・敗れてしまう。
  この時は、領土の一部が奪われた。
  イギリスは、1852年に、領土がさらに欲しくなり、再
 び、侵略を開始した。
  ビルマは、再び、清国に援軍を要請するが、イギリス
 は、卑劣にもフランスを味方に引き入れ、天津の攻略な
 どを行って、清国をかく乱した。
  清国は、ビルマへの援軍どころではない状況になった。
  狡猾なイギリスのアジア侵略の行動だった。
  援軍が来たらず、ビルマは敗北し、国は無残な姿とな
 る。
  そして、1885年に、ビルマ国王のシーボウは降伏した。
  国王は、イギリスに幽閉されてしまった。
  そして、英清条約によって、清国とビルマの関係は切
 り離された。
  1886年、何と! ビルマは、イギリス領であったイン
 ドに併合される。
  ビルマという国はなくなされてしまった。
  イギリスは、武力にものを言わせて、やりたい放題だ
 った。
  歴史ある国・ビルマは、インドのある一つの州となっ
 てしまった。
  ビルマに暗黒の時代がおとずれた。
  公用語は、英語にされた(戦後、日本も、アメリカに
 英語にされそうになった・・が・・)
  そして、イギリスの差別行動が始まる。
  ビルマの民族衣装のロンジーは侮蔑される。
  ビルマの伝統的教育は停止される。
  そして、解体された(日本も、アメリカ占領軍にあら
 ゆる検閲を受ける・・)
  そして、ビルマは、ごく一部のビルマ人のみしか、教
 育を受けることができないという状況に強制的に置かれ
 た。
  あとのビルマ人は、白人の下働き、「よき下僕となる
 ことが良いのだ」とされた。
  今までにない、まったく差別される状況、差別の中に
 扱われるようになった。
  優越の中にイギリスは居た。
  イギリスの植民地支配は狡くて巧みだった。
  イギリス植民地のインドから、インド人労働者を大量
 にビルマに送り込んだ。
  そして、資本を投入した。
  資本的にも支配した。
  そして、ビルマ人の労働者も圧迫した。
  ビルマ人の方々は職にあぶれた。
  イギリスに仕向けられたインドの方々は、労働以外に
 も農業開発資金を貸し付ける金融業者として、
  あるいは、あらゆる商業経済に属するものへ、ビルマ
 の方々の経済を圧迫した。
  また、イギリスは、インド人とビルマ人を反目させた。
  その上にイギリス人が君臨するという形を作った。
  デバイド・アンド・ルールだった。
  (参考)デバイド・アンド・ルール:分断統治(ディ
    バイド・アンド・ルール)は、民族間を分断し、
    民族同士が力を結集しないように対立を作り出し、
    互いに争わせて、
    宗主国が統治しやすいように、
    宗主国への抵抗を和らげるための植民地支配政策
    だった。
  さらに、ビルマは、支那人の移住にも悩まされた。
  ビルマは、イギリス、インド、支那から二重三重に搾
 取されるようになった。
  この様な状況で、イギリスに支配されるビルマの方た
 ちは、どんどん無気力になって行った。
  1900年頃に至り、ビルマ独立運動を展開していたオッ
 タマ僧正がいた。
  当時のビルマの方々といえば、ビルマの港に、イギリ
 スの巨大なタンカーが停泊して、
  本来は、ビルマの方々のものであるべき石油が、どん
 どんイギリスに収奪されていくのを見ても、
  何らその行為を、収奪行為と感じなくなっていた。
  その様な無気力、無自覚となったビルマの方々に、転
 機が訪れた。
  それは、ボーア戦争(1899年~1902年)と日露戦争(
 1904年~1905年)だった。
  ボーア戦争は、南アフリカに移住したオランダ系農民
 が、原住民とともに、イギリスの統治に反抗して戦った
 戦争で、
  結果は、イギリスの勝利となったが、ビルマの方々へ
 大きな影響を与えた。
  また、日露戦争も、有色人種の日本人が、白人の大国・
 ロシアに勝利した戦争で、ビルマの方々へ勇気を与えた。
  ビルマの歴史家ティン・アウン博士は・・、
  「この頃に、ビルマの最初の映画館が出現したが、上
 映されたのはボーア戦争と日露戦争の記録映画であった。
  ビルマの観客は、スクリーンに写し出されたマフェキ
 ン(イギリス軍に包囲されたボーア人の町)のボーア人
 救出に安堵のため息をつき、
  また、日本軍の兵士が、鉄道で輸送されるロシアの軍
 隊を攻撃する場面に拍手を送った。
  その頃は、映画の検閲などもちろん無かったうえに、
 イギリスの役人たちは、ボーア人に対するイギリスの勝
 利を印象づける映画や、
  イギリスの同盟国(日英同盟)である日本が、ロシア
 に勝つ映画は、ビルマ人に見せても害はないと考えてい
 た」。
  独立運動を展開していたオッタマ僧正は、日露戦争の
 日本勝利に感激し、
  日本へ2回行き、その感激を「日本」という著書に表し
 た。
  そして、ビルマ国民の奮起を促した。
  「日本の隆盛と戦勝の原因は、英明なる明治大帝を中
 心にして、青年が団結して起ったからである。
  われわれも仏陀の教えを中心に、青年が団結、奮起す
 れば、必ず独立を勝ち取ることができる」
  「長年のイギリスの桎梏(しっこく、手かせ足かせ、
 自由を奪うもの)からのがれるには、日本を頼る以外に
 道はない」・・と語り、そして、記した。
  オッタマ僧正は、1939年(昭和14年)に亡くなったが、
 僧正のビルマ独立の悲願は、その約4年後に達成された。
  その契機となったのが、大東亜戦争(第二次世界大戦)
 だった。
  以下のURLを御覧ください。
 http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/08/post-2082.html
  尚:参考文献は・・、
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 PHP「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子(著)
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
 参考サイト:Wikipedia「ミャンマー」
.
  (今日の言葉)
.
  題:奥に居る策士は・・チャーチルか? 
    チャーチルとルーズベルトの二人は策謀する。
.
1943年11月28日、テヘラン会談(~12月1日)
  この時の写真に、ルーズヘルト・アメリカ大統領、チ
 ャーチル・イギリス首相、ソ連・スターリン議長が写っ
 ている。
  この時、この3人の連合国首脳によって、第二次世界大
 戦の戦争上の諸問題、そして、戦後処理について話し合
 われた・・が・・、
  この話し合いの前には、ルーズベルトとチャーチルの
 話し合いが行われていて、
  大筋は、実際は、この二人で話し合いで決まっていた。
  ある意味、この二人の会談・悪計で決まっていた。
  ソ連の対日参戦を確実にするために、ソ連のスターリ
 ンへ「さらなる手土産」が用意された。
  それは、ソ連のスターリンへ、「不凍港を持ったらど
 うだ?」と持ち掛け、
  ソ連が不凍港を持ちたいという弱点を突いて、その欲
 望に火を付けるという策だった。
  会談が進んで行って・・チャーチルは、話を、ソ連の
 広大な領土の話題へ持って行った・・その時に、この話
 は始まった。
  チャーチルは言った、「それほどの国なのだから、当
 然、不凍港を持つにあたいする」・・と・・、
  スターリンは、「それでは、極東に何らかのものを期
 待してよいのだろうか」・・と・・、
  スターリンは続けた・・、
  「ウラジオストク港は完全な不凍港でなく、また、対
 馬海峡を通じて、常に、日本に封じられる位置にある」
 ・・と、答えた。
  ルーズベルト・アメリカ大統領は、かねて、チャーチ
 ルと打ち合わせていた通り、ここで発言した・・、
  「大連を(ソ連が使える〉自由港にするというのはど
 うだろうか?」・・と・・、
  スターリンは言った・・「中国が嫌がるだろう」と、
  その言葉に、ルーズベルトは・・「国際的保証があれ
 ば、中国はむしろ乗り気だろう」と答えた。
  実は、ルーズベルトは、この日から3日前に、中国の国
 民政府・蒋介石と打ち合わせをしていて、
  中国が、アメリカの支援を欲しがっているのを知って、
 アメリカが、「中国の後ろ盾になる」ことを約束してい
 た。
  「旅順の米中共同管理」の希望を、蒋介石がアメリカ
 へ言い、
  蒋介石は、アメリカ軍の旅順駐留を望み、その様な形
 の「後ろ盾」が欲しいと言った。
  これに答えて、ルーズベルト・アメリカ大統領は、「
 共同管理する国際港」という言葉を使った。
  ソ連へのさらなる「対日参戦の餌(エサ)」は、この
 様にして、アメリカ大統領ルーズベルトによって作られ、
 撒かれた。
  そして、このテヘラン会談では、1944年6月のノルマン
 ディー上陸作戦の最終確認もなされた。
  (参考)策謀:さくぼう、はかりごとをめぐらすこと。
     たくらみ。策略。
  (参考)策士:さくし、好んで事をたくらむ人。
     因みに、今、イギリスで、策士・チャーチルの
    評価は落ちているとのこと。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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