昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

3 青い鳥 昭和42年(1967年)~昭和44年(1969年)

2017年12月16日 16時54分14秒 | 3 青い鳥 1967年~

青い鳥
昭和42年(1967年)~昭和44年(1969年)
中学生時代を物語る

淀川中学2年4組 男女共々 各々 それぞれに とにかく 仲の良かった クラス であった
目次
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昭和42年(1967年)4月~昭和43年(1968年)3月・中学一年生・13才
あしたのジョー ・・・時代の記憶が定かでない
ファイティング原田を代表とする、フライ、バンタム級の軽量級しか知らなかった私
ヘビー級ボクシングの凄さを知った
そして 「ヘビー級は凄い」 と、感動したのである
ラジオ体操 第二
「ラジオ体操第二を次の授業までに覚えて来る様に」
「えーっ!」
誰もが、ラジオ体操第一 までしか 知らない

「ラジオ体操第二、教えて上げよう」
三年生であった
ヒーローに、成った
脇役だった一年生
「花田も都島球技大会に出たなぁ」 と、諏訪
守備の人 として、三塁手 として、選手に選ばれた
「都島球技大会・代表メンバー」 として、顔は立てて呉れたものの

切身の塩サバ 一つ
通常の弁当箱+オカズ入れ小箱、更に味付海苔一束
「オッ、ハナダ今日は豪勢やな」
私もそう想った

ひとの心懐にあるもの
よだかの星 (読書感想文)
よだかが身にくく、弱いために他の鳥からきらわれ、ばかにされる。
もしよだかが強かったらどうだろう。
「おかあちゃん、この漫才おもしろいで」
夕食の支度をしていた母に、そう叫んだのである
それはもう、おもしろかった

まんまんちゃん あん
昭和43年(1968年) メキシコオリンピック
日本チームは銅メダルを獲得した
そして 釜本は得点王に輝き、「世界の釜本」と、賞賛されたのである
スポーツと謂えば 野球の頃
「サッカー」
新しいファッション としての スポーツ・・・と
中学生の吾々は、そう認知した のである

ブルー シャトー
タカタカタカタカタン♪
ドラムのスティック を、持ち出して机を叩き始めた

教師の驕り 人としての格
女子の目前にさらされた男子の心を慮ることも無く
己が神聖なる授業を妨害したとして、その罰として、衆目にさらしたのである
こともあらうに、さらし者 にしたのである
禁じられた遊び
逃げ惑う親子連れ
戦闘機は、彼等を狙って容赦はしない
戦争とはなんと惨たらしいものなのか
撃ちおろされた弾が、逃げる親子の後ろから追いかけてくる
「殺られる」
二十四の瞳 花の絵
「お母さん、百合の花の弁当箱、ほんまに買うてよ。 いつ買うてくれるん?」
記憶して、忘れられないフレーズである
どうしても、残しておきたい
残さずにはいられないのである

昭和43年(1968年)4月~昭和44年(1969年)3月・中学二年生・14才

ヒーローに、成った
一躍、ヒーローになった二年生
この試合、私は
4打数4安打、3ホームラン、1三塁打、11打点
それはもう、大活躍であった
・・打って更に良し
「花田 単りにやられた」・・コールド負けした6組の岩出
「あいつがおれへんかったら・・勝ってたんや」 と、負け惜しんだ

ちょっと、つまづいただけの物語
途中
巾1メートル程のクリークに架かる床を丸太で組んだ木橋に差しかかった
駈足で上る私は、偶々 そこで つまづいた
ところが
丁度そこに降りてきた女子生徒○○弘子さん
(中一の時の同級生)
木橋に差しかかった時
偶々、全く同じタイミングで、つまづいたのである
「アッ !」
ぶつかる・・・

長島茂雄 感動のホームラン
昭和43年(1968年)9月18日・阪神タイガース戦
阪神の投手「バッキー」が、「王」 に危険球を投げた
この事が発端で、 巨人の荒川コーチがマウンドに駆け寄る
バッキーが応戦してパンチを撃つ・・・

not only but also
「英文を訳せよ」 と、教師・森先生
「ちよっと違う」 と、クラスの秀才・橋本がそう洩らすように言った
メキシコ五輪 『ボールに乗った少年』 橋本  鉄人・吉田

青 い 鳥
私は彼女と席を並べることが出来る・・
「ワーッ」
クラスの皆が歓声を上げた
私は席を移動しようとしていた隣の女子を制してしまった

小さな幸せを・・
「花田君、黒板見る振りして、キーコ 見てやる!」
仕合せな時間は、長くは続かなかった
選りにも選って
告白の時、彼女が 「OOOやろ」
と、言った OOOが 皆の前でそう告げたのである
「私、知っているよ」 と、彼女
それ以来
私は、カナシバリにあったが如く 黒板上の額に目を向ける事ができなくなった
もう 青い鳥 を 見ることが できなくなったのである
OOO ・・おまえの所為やぞ

心を合わせるということ とは
「楽譜通りに歌おう」
一人の男子生徒が、そう発言した
クラスの皆はうなづいた
合唱コンクールの練習中のことである
 
合唱し終えた吾々を迎えた音楽の松尾先生
ニコニコして
「花田君、間違ったわね、でも、立派だったわよ」
と、私の後の態度が善かったと誉めて呉れたのである
そして皆に
「良かったわよ」 と、満足そうであった
なんやお前、教科書忘れたんと違うんか
「柿、うまそうやな」
「ん・・・」
昭和43年(1968年) 二学期
授業中、二人して窓の外に目を遣れば
朱く熟した実をつける柿木が見える
秋・・哉

・・・・と
肩を並べて二人、良い雰囲気であった

昭和44年(1969年)4月~昭和45年(1970年)3月・中学三年生・15才
ヒーローに、成った
優勝候補に成った三年生 青い鳥の眼前で・・・
私は三塁を守っている
私と差向えに 2組を 応援する彼女の姿があった
バレーボールの選手の筈、競技が終わってのギャラリーなのか
それとも、競技の合間か、いずれにしても
「青い鳥が見ている」
そんな時に 限って亦
私に打球が転がって来る
クールなアイドル
○○○ が、私と同じクラスの男子を好きだと云う
「なんで、あいつやねん?」
がり勉
頭の中は、受験モード に成ってゆく
家での 独学 は、もちろんのこと
45分の授業が終わると、次の授業までの 10分の休憩時間
昼食後の昼休み、と
参考書・グリップ、を読み、問題集・アタック、を解いた

余計な一言
その一言、聞捨てならぬ

昭和44年(1969年)、中学3年生
新学期の恒例、数名の教師が入れ替わって
その一人に図体のでかい巨顔の男性教師がいて、
吾々は さっそく 「塗り壁」 と、綽名した
 (ゲゲゲの鬼太郎から)
或日午後の授業は自習時間、ピンチヒッターとして現れた「塗り壁」先生
その「塗り壁」先生が一席ぶった

想い出したくとも、想い出せなき記憶 観音様です、おつ母さん
浅草寺観光の後、確かに夕食はとった
然し
浅草寺・斯の煙り、(写真の様に) 私も冠った筈であらうに
そして、観音様にお参りしたであらうに・・・完全にワープしているのである

「カーディガン」の想い出
吾々は解放感の中に居た
各々 自由行動を取って 修学旅行を漫喫している
私は 一人の女子 と 差向い
気分は 二人の世界 で あった
彼女のカーディガン を着て すっかりご満悦、淡い雰囲気に浸っていた のである
 イメージ カーディガ ン
折角の恋心
 昭和44年(1969年)4月の新学期に臨み
愈々、来年は高校受験
脇目も振らず勉強に打込もう・・そう決心したのである
そして、頭を受験モードに切り替えた
『恋なぞしない』・・・と

淀川堤で待つ吾々のもとへ現われたは、なんと カーディガン ○○○ 
それは ちがうやろ
翌日、突端の授業(英語の時間)、教師(男性)がクラスの皆に尋ねた
「昨日の演奏会に行って皆はどう思ったのか・・」
学年成績トップの男子生徒が手を挙げて、意見を述べた
要約すると
大阪中の三年生が一同に集まった光景を目の当りにして
そのスケールの大きさに、自分は思うところがあった
自分は 「井の中の蛙」 だと思った
今の成績に満足せず、もっと頑張らなくてはと思った
教師は、良い意見である と、誉めたのである
「それは違うヤロ・・」
虹のまち 「 ばら色の瞬間(とき)」
昭和44年(1969年)11月30日
大阪梅田の阪急三番街がオープンした
「地下街に川が流れてるんやぞ」
「ほんまかいや、すごいなァ」
「こいつ、アホやで、川の中のコイン、拾らおうとしてんねん」
「ちがう、ちがう、手伸ばしただけや」
「ウソォつけ!」
「ウソやない、ほんまやて」

文学少女にはなれなかった
「アハハッ」・・ともがき・舟木 が、笑い出した
「どうした、何がおかしいんヤ?」
「さっきから、そこばっかり、何遍も呼んでいる」

青い鳥が残したもの
私の夢は大きかったよ
でも、それは二年の終わりに消えたのよ
こたえるなあ 勉強しなかったの
でも 楽しかったわ ○○さん
・・・青い鳥 のもの
私が記憶する文章である

一緒に行ったろかぁ
「あの先生、いかりや長介に似てる」・・と、面接官を指して母が言う
清風高校、親子面接での待ち時間中のこと
私の緊張を解す為・・にと、吾母の気遣いである

傍で話を聞いていた、同級生 tei
「一緒に行ったろかぁ」 と、手を差し伸べて呉れたのである
よくよく、しょげている私を 見るに見かねてのこと
嗚呼、神様 仏様、tei 様

生涯最高のスコア・・・
「律子さん 律子さん 爽やか 律子さん」
吾々の世代なら、誰もが知っている
女子プロボーラー・中山律子
花王フェザーシャンプー(昭和47年)のTV・CMである

進路相談
石橋を叩いて渡れ・・とな
これはもう、相談でなく、勧告である
私としたら
冒険、チャレンジ・・と、謂う認識は無かった
有るは、どうしても行きたい・・と、謂う願望、夢であった
私は、合格の確立を訊ねた
確立は半々だという
「全くの、五分・五分ですか?」 
「5.5の方ですか、4.5の方ですか?」
・・・
先生、答えなかった

クラスメイトの女子生徒・福本サン
美人で 爽やかな人であった
順番待ちをしている二人
どちらかとなく、喋りだしたことから ちょっとした物語と発展した
革命児達
更に、大阪の時の勢いは異端児 を産んだ
天才 月亭可朝 の登場である
彼の笑いはシャレていた
「中学生ふぜいに、簡単には笑わさへんで」 ・・と
どや・・・粋ななぁ  シャレてるやろ・・と
 

一寸した油断から魔が差す
「落ちろ・・」
本当に落ちてしまった

私は
「落ちろ・・・」と、言って、友がき・坂尾の背を押した
勿論の事、冗談である
が・・
友がき・坂尾、プラットホームから線路に落ちてしまったのである
普段、プラットホームと線路の高さは見ている
だから、直ぐに上がって来れるものと想っていた
彼もそう想ったにちがいない
ホームに入って来る電車に気付くまでは

次頁
4 力みちてり 昭和45年(1970年)~昭和47年(1972年)

に続く


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