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by hamarie_february

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2009年夏・津軽

2009-09-12 20:55:03 | Weblog

9月3日から8日にかけて東北地方を旅してきました!

相も変わらずの貧乏旅行。今回は、「東日本&北海道フリーパス」(連続5日間有効で10,000円!)で、秋田から五能線にて青森、青函トンネルを夜行で渡り札幌、再び青森に戻り津軽半島をぐるりと巡ったあと、岩手の遠野、仙台に寄って帰路という強行軍でした。

プランを練る途中で、案の定あれもこれもと詰め込みすぎてしまいましたが、そもそもは太宰治生誕100年のニュースを見て、この機会に一生に一度は東北に行ってみたいと思ったのがきっかけでした。

太宰治の『津軽』は、戦時下の昭和十九年、彼が三十六歳の夏に、小山書店からの依頼で書き下ろされた作品です。

彼の津軽旅行の足跡を辿ると・・・
東京出発-青森経由、蟹田着(N君宅に逗留)-三厩泊り-竜飛泊り-蟹田着(N君宅)、金木町生家着-五所川原-木造経由深浦泊り-鯵ヶ沢経由五所川原泊り-小泊泊り
・・・までで「さらば読者よ」となっておりますが、あとがきによると実際は、小泊のあと再び蟹田に戻り、旧友N君宅を旅の終点としたようです。

  

 

ご存知のように、「津軽、あるいは故郷、家」は太宰文学にとって計り知れないほどの比重をもつテーマ。

そして、この『津軽』という作品こそは、あらためて自己存在の根っこを再確認しようとしたものだと言われていますが、そうは言っても紀行文であり、ほかの作品には到底観られないような、清々しく温かく幸せな「人の心と人の心の触れ合い」が(意識的にも)描写されようとしていると感じました。

実際、太宰は、行く先々で迎え待つ人びとから、このうえない歓待を受けています。配給制で物資が少ないあの時代に、ご近所からお酒類をかき集め、東京から来た作家先生・太宰をもてなす人びとの様子が、ユーモアと愛情を持って描かれています。

生家に戻ったときでさえ、太宰の様子は、もちろん「兄からあの事件についてまだ許されているとは思わない」と語り若干緊張はしているものの、決して疎外感というほどのことは感じられません。

この作品を読みながら津軽を巡ったワタシは、最終章の小泊で女中のタケに再会が叶うシーンに至り思わず感極まり・・・。「心の平和」「不思議な安堵感」「甘い放心の憩い」を、臆面無く素直に語る、まことに幸せそうで安心しきっている太宰の姿に、ただただ涙が止まりませんでした。

そうして、「元気で行こう。絶望するな」と戦時下の読者に呼びかけて『津軽』の稿を締めた太宰でしたが、その四年後、敗戦の混乱のなか、遺作『人間失格』を書いて入水心中に至ったのはご存知のとおり。

何が太宰を死に至らせたのか。高校生の頃に、歴史の教員から繰り返し聞かされたこんな話が甦ります・・・。戦時下においても時局に屈せず良質の文学にこだわる姿勢を見せつづけたと評価されている作家・太宰治。戦後、国家主義から一転して民主主義に豹変した文壇を批判して、むしろ今こそ「天皇陛下万歳と叫ぶべきだ」と主張した無頼派・太宰治。

しかし太宰の本心は、後世の教育者に期待されるような、そんな勇ましい覚悟とは、まったく遠いところにあったのではないかしらと、太宰ファンとしては思います。

 

私は戦争中に、東条に呆れ、ヒトラアを軽蔑し、それを皆に言いふらしていた。けれどもまた私はこの戦争に於いて、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役に立たなかったかと思うが、しかし、日本に味方するつもりでいた。この点を明確にして置きたい。(『十五年間』)

戦時下の文学者の責任、あるいは芸術的抵抗はあったかという問いは、戦後の文芸批評の際の重要なテーマになってきました。

戦後に限らず、おそらく現代においても、たとえば直近では村上春樹のエルサレム賞騒動を鑑みるにつけ、「芸術的抵抗」に類することへの評価には根強いものがあります。

太宰は、戦後文学からは一線を画す「無頼派」として評価されていることは先に述べましたが、加藤典洋などは、やはり「戦後論」と太宰を結び、いくつかの評論を書いています(たとえば『戦後後論』96年8月初出)が、この芸術的抵抗に、むしろ正面から抵抗したのが太宰の戦中であり戦後だったのではないかと言います。芸術的抵抗はあるやなしやという視点に、むしろ抵抗したのだと。

彼と彼以外のすべての戦後の作家の違いを、こういってみることができる。

戦前と戦後のあいだに水門がある。坂口の小説、石川の小説が、先にあげたような、「もしこれが戦争中に書かれていたらもっとよかったのに」という感想を残すとは、水門を開けると、戦後の水が戦前のほうに流れ込むということだ。(中略)その高い分がすっと水門が開くと流れ込んで、水面が揺らぐ。先の感想は、その水面の揺らぎなのである。

戦後文学が、「堰を切ったように」敗戦を機に花開くのは、文字通り、水門を開けられ、いままで水がほとんどなかったところによそからとうとうと水の流れ込むさまを思わせる。ある意味では「無頼派」もその例外ではない。彼らのうちに何人、そのことへの羞恥を感じた文学者がいたかはわからない。

しかし、太宰は、そこに自分の文学の一番大切なものを見た。その証拠に、太宰の文学だけは、戦前と戦後のあいだの水門が開かれても、ぴくりとも水が動かない。(『戦後後論』)                                        

なるほどなぁと思います。文芸評論がいかにして可能かということも含め・・・。

ぴくりとも動いていないかどうかはワタシにはわかりませんが、太宰は戦後の「明るさ」、テンションの高さに、ついていけなかったのは確かなようでした。

時代は少しも変わらないと思う。一種の、あほらしい感じである。こんなのを、馬の背中に狐が乗っているみたいと言うのではなかろうか(『苦悩の年鑑』)

さて、穏やかな晩夏の竜飛岬で、幾度も幾度も「津軽海峡冬景色」を聞かされたあと、いったん青森駅に戻り、弘南バスで五所川原まで向かいました。

五所川原からは津軽鉄道に乗って、いよいよ太宰の生家がある金木町へ。

 

太宰の生家「斜陽館」の入館時間までに無事辿り着きました。

 

なるほど立派なお屋敷でした。館内は当時流行ったものを全部つぎ込んだかのようにまったく統一感がない。悪く言えば成金趣味になるのでしょう。

しかし、『津軽』の中で太宰が、亡き父親が建てたこの豪勢な家を理解しようと努めている部分があって、それを微笑ましく読んでいたため、まったく嫌な印象はありませんでした。太宰はつくづく意表をつく人だなぁと感じられます。

それから、太宰が何度も取り上げてベタ褒めしている岩木山が、津軽鉄道の金木駅のホームからとても美しく見えました。

富士よりももっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。(『津軽』)

帰途につく頃にちょうど夕日に照らされて、それは本当に見事な風景で・・・。だけど肝心なシャッターチャンスに、デジカメの電池が切れてしまい撮影できませんでした・・・。

このタイミングの悪さをもって、『津軽』をめぐる、ひと夏の旅は終わったのでした。

 

(JR津軽線 蟹田にて)

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2 コメント

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私も東北地方を旅しています (K_Tachibana)
2009-09-13 09:37:35
私も金曜日から今日まで鳴子温泉に来ています!
青森まで足を伸ばすことなく帰りますが,非日常の世界に身をおくことは,気分転換になりますね.
東北地方は (hamarie_february)
2009-09-13 11:55:44
電車の乗り継ぎが(幹線は)意外と便利なので欲張ってしまいました。一カ所にゆっくりと温泉もいいですね~。

遅くなりましたが、科研費獲得おめでとうございます。とても興味深い内容なので、どうなっていくのか楽しみです。

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