浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ノーベル文学賞

2016-10-14 19:01:18 | その他
 ノーベル文学賞を誰が受賞するか、ということにはあまり興味はないが、村上春樹が受賞するのでは、という一部の春樹ファンの騒ぎがいつも報じられる。

 私は、今年のボブディラン受賞に、なるほど、と思った。村上と比較すれば、ボブディランの方がよほど社会性があるし、歴史の動きに敏感に対応した歌詞を提供してきている。社会や歴史にとっての文学の意味、ということを考えれば、納得がいく。

 J=CASTニュースに、なぜ村上は受賞できないのかという記事があった。その一部を紹介しよう。

 ストックホルムで活躍するジャーナリスト、デューク雪子さん、この人は村上作品を翻訳もしている人だ。彼女の発言。

「アカデミーから漏れ聞こえてくる声は『才能は十分認めるが......』なんです。『......』をはっきりは言わないんですが、何かが望まれている。深みというのか......。軽すぎると思われているんじゃないですかね」

 そうだな、と思う。私が村上作品にみているのは、「軽い」だけではなく、深みがない、ということだ。文学を読み、うーむとうなるような作品には、重さと深さがある。読んだ後に、その重厚さにことばを発することができない、という作品が、私にとってはよい作品である。それは、ドストエフスキーをはじめ、世界の古典と称される文学には、それが必ずある。

 村上作品は、池の表面にみられる小さなさざ波をその表面だけを、あーでもない、こーでもないと描いているようにしか思えない。

 記事では、こういうことも書かれていた。

ナポリ東洋大の教授として日本の近現代文学を研究し、イタリア文化会館東京館長を務めるジョルジョ・アミトラーノさんは、「村上は世界のどの作家の追従も許さないほど、現代という時代の本質をつかみ取っている」と断言している。


 そうだな、と思う。「現代という時代の本質」をつかんでいる、という指摘に、である。その本質とは何か。軽佻浮薄であると、私は思う。

 
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